若者のすべて:罪深い人間の情念を描いた傑作 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

若者のすべて:罪深い人間の情念を描いた傑作

若者のすべて
Rocco e i suoi fratelli


監督:ルキノ・ヴィスコンティ
脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、マッシモ・フランチオーザ、エンリコ・メディオーリ
原案:ルキノ・ヴィスコンティ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、ヴァスコ・プラトリーニ
製作:ゴッフリード・ロンバルド
出演:アラン・ドロン、レナート・サルヴァトーリ、アニー・ジラルド
音楽:ニーノ・ロータ
撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
編集:マリオ・セランドレイ
1960年 イタリア・フランス合作映画


本作『若者のすべて』は、のちに耽美主義的な映画に傾倒していくルキノ・ヴィスコンティが撮ったネオリアリズモの青春映画ということになっている。
南部から北部の大都市ミラノに移り住んだ一家が直面するイタリアの「南北」問題と貧困を描いた社会派映画という評もある。
しかし、本当にそうだろうか、疑ってみる必要がある。


僕は、『若者のすべて』を非常に観念的で耽美的な映画だと思う。
ヴィスコンティは、没落貴族にたどり着くまでに、彼の耽美主義の受け皿となる舞台を探していたのだろう。
耽美とはある意味で正反対に位置する貧困に舞台設定することで、耽美を描けないか実験したのではないかと思う。


原題は"Rocco e i suoi fratelli"、『ロッコとその兄弟』だ。
ロッコとは、アラン・ドロンが演じるバロンディ家の5人兄弟の三男坊のことだ。
題名になっているにもかかわらず、ロッコはあまり存在感がない。
強烈な個性を発揮するのは、次男のシモーネ(レナート・サルヴァトーリ)の方だ。
腕っ節が強く、欲望の誘惑に弱く、コソ泥もすれば、娼婦にも手を出す。
娼婦のナディア(アニー・ジラルド)は、シモーネの女になる。
シモーネとナディアは自堕落な生活をするが、ロッコはナディアに愛を告げ、ナディアもひとときは真っ当な生活に戻る。
この時のアニー・ジラルドは、実に美しい。


しかし嫉妬に狂ったシモーネは、ロッコの見ている前で、ナディアを犯す。
ここでロッコは、驚くべき行動をする。
ナディアに対してこう言うのだ。
「シモーネは君を愛しているが、弱い人間であのような形でしかそれを表現できないのだ。君も僕ではなくシモーネを許し愛してあげて欲しい」
ナディアにとって、この言葉は理解を超えており、絶望的に響いたことだろう。


もはやリアリズムなどどこかに消え去り、どっぷりと観念の世界にはまってしまっている。
もちろん、ナディアはシモーネを愛することなどできない。憎むのみである。
ナディアの愛を得られず(あたりまえである)、シモーネは思いあまってナディアをナイフで刺し殺す。
その時、ナディアは両手をひろげ、まるで十字架にかけられたようなポーズになる。
このシーンを撮りたいがために、ヴィスコンティはこの映画を作ったのではないかと思われるほど、象徴的で美しい場面だ。


ナディアを殺してしまったシモーネが家族のもとに転がり込んでくる。
慌てふためく母と兄弟たち。
四男坊のチーロは、警察に通報しに行こうとする。
ここでロッコがまたもや理解しがたい行動をとる。
ロッコはチーロが警察に行くのを止めようとし、シモーネを抱きしめるのだ。
ここまで来れば、ロッコの姿は、まるで罪人を赦すイエス・キリストのように見えてくる。


この作品の中で、アラン・ドロンはあまり目立たない。
演技も控えめだし、イタリア語のセリフはすべて吹き替えられている。
ネオリアリズモを追及するなら、イタリア人の俳優を起用したはずだ。
しかし、それ故にアラン・ドロンが並外れた俳優だったことがはっきりと認識できる。
同じ1960年に製作された彼の出世作の『太陽がいっぱい』と同様に、彼は画面の中で強烈な存在感のオーラを放っているのだ。
アラン・ドロンの悲劇は、1960年に撮られた『太陽がいっぱい』と『若者のすべて』を越える作品が、結局その後の彼のキャリアを通じて現われなかったことだろう。


3時間近い長尺の作品だが、居ずまいを正して集中して観る価値がある。
全編が、罪深い人間の情念を描いた聖書の寓話を思わせるルキノ・ヴィスコンティの初期の傑作だ。