飢餓海峡:犯罪にたいする優しく悲しい眼差し
監督:内田吐夢
脚本:鈴木尚之
原作:水上勉
製作:大川博
出演:三國連太郎、左幸子、高倉健、伴淳三郎
音楽:冨田勲
撮影:仲沢半次郎
編集:長沢嘉樹
1965年 日本映画
戦後日本が内包してきた様々な社会的矛盾を描いた映画の名作として、松本清張原作の『砂の器』と双璧をなすのが水上勉原作の『飢餓海峡』だろう。
1940年代から1950年代に生を受けた我々の世代が、自らの生きてきた時代をまずは知り、さらには総括しようと試みるならば、心の準備運動として避けて通ることができない作品だろう。
松本清張がそうであったように、水上勉もまた作家として大成する前の半生は霧の中にある。
この二人の作家は、自らを語ることは少なくても、小説の背景や登場人物が作家の奥底を雄弁に語るところに共通点があった。
『飢餓海峡』の時代背景は、昭和20年代という日本が未曾有の大混乱の中にあった敗戦後の10年間だ。
未曾有の大混乱とは、なんでもありの時代であったということである。良い意味においても、悪い意味においても。
そして、未曾有の大混乱の中でこそ、人間のドラマは最大限に増幅される。これもまた真実だろう。
昭和29(1954)年に発生した台風15号は、青函連絡船・洞爺丸の難破によって1000名を越える犠牲者を出したことから以後洞爺丸台風と呼ばれることになる。
この洞爺丸台風は、同時に北海道岩内で大火を巻き起こし、同町の80%を焼き尽くす被害となった。
水上勉のインスピレーションは、洞爺丸の難破と岩内大火を結びつけて、『飢餓海峡』の事件の発端を作りだした。
発端となる青函連絡船の遭難は昭和22(1947)年に設定され、売春防止法が成立する昭和32(1957)年までの10年間を描く。
網走刑務所から出所した男たちが食い詰めて岩内(岩幌となっている)の質屋を襲撃し一家を惨殺し、金を奪った上、放火して逃走する。
折からの台風による強風で、火は一気に勢いを増す。
火事の混乱に乗じて強盗犯は、函館行きの列車に飛び乗る。
函館は、青函連絡船(層雲丸となっている)難破によって水死者が次々に打ち上げられ大騒ぎになっている。
水難者の救出を装って、三人組は小船を漕ぎ出して対岸を目指すが、途中で仲間割れを起こし、犬飼多吉はほかの二人を殺して海に突き落としてしまう。
青森・大湊にたどり着いた犬飼多吉は、そこで娼婦の八重と出会う。
それは、犬飼にとってはつかの間の安らぎの一夜となった。
犬飼は大金を八重のために残して姿を消す。
八重にとっても、犬飼は忘れられない男となった。
八重は青森から東京に出てからも娼婦を続けていたが、10年が経った頃に新聞紙面で、舞鶴の篤志家が刑余者支援のために多額の私財を寄付したニュースを目にする。
篤志家の名前は樽見京一郎と書いてあるが、その写真の顔はあきらかに、犬飼多吉だった。
八重は懐かしさのあまり舞鶴を訪ねる決心をするが、それは闇に埋もれていた10年前の事件を明るみに引きずり出すことになる……。
監督の内田吐夢は、主役には三國連太郎しかいないと、強硬に主張したという。
まさに日本版のジャン・ヴァルジャンとして、野獣と篤志家を演じ分けられるのは、三國連太郎をおいて他にいなかっただろう。
薄幸の娼婦を演じる左幸子も、優しさとたくましさが同居し、男への愛情と性愛の悦びすら包含する、女というものを見事に演じている。
そして、犬飼多吉を追い続ける執念の刑事・弓坂吉太郎を演じる伴淳三郎。
犬飼多吉がジャン・ヴァルジャンであるなら、弓坂吉太郎はジャベールだろう。
強盗殺人放火犯である犬飼多吉をついに追い詰めた時に、弓坂吉太郎が自問したのは「罪とは何か、罰とは何か」だったのではないだろうか。
『レ・ミゼラブル』において、ジャン・ヴァルジャンは静かに天に召され、ジャベールは川に身を投げて死ぬ。
『飢餓海峡』において、犬飼多吉は護送される途上、一瞬のすきに青函連絡船上から津軽海峡に身を投げて自殺する。
舞鶴からの列車の中では手錠をされていた犬飼多吉は、青函連絡船上では手錠も腰紐も外されている。
そして船上から事件の犠牲者たちに花を手向けるようにうながすのは、弓坂吉太郎だ。
弓坂吉太郎は、犬飼多吉に自死を促したのではないだろうか。
私には、そう思えるのだ。「人間の業に根ざしたこの事件は、もはや司直の手にゆだねるのは忍びない」と。
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