赤道を横切る:第39章 マニラ(その5) | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

赤道を横切る:第39章 マニラ(その5)

さて、一行のマニラ滞在もいよいよ終わりに近づきます。最後の夜、三巻俊夫は太田興業社長の諸隈老(彌策)に連れられ当時世界最大とも言われたサンタアナ・キャバレー(写真上)に繰り出しています。キャバレーと言っても一応は紳士淑女の社交場、一寸ハメを外して現地の踊り子の顰蹙(ひんしゅく)を買ったと三巻俊夫は反省の弁を書いています。「今回旅行中の最大最悪の失敗」とまで書いているのですから、まあ純情で可愛いものですね。

諸隈老とは、当時のフィリピンでマニラ麻などを手広く扱って発展した太田興業三代目の社長です。明治時代後期、道路工事の人夫としてフィリピンに渡った

「ベンゲット移民」から身を起こした立身出世の人です。その人が七十歳を越えて軽快にダンスのステップを踏み、ジェントルマンの手本を示すのですから、確かに明治生まれの日本人の底力には感心させられます。

 

「さくら」では、立派な画帳を持ち出して何か書けとある。いかに動脈の強い(近頃は心臓が強いとは申さぬ)我輩でも書画と来たら怖れをなす。図画と習字とが少し良かったら小学校時代は全甲であったはずだ。それでも時折、大真面目でご健筆でなどと推賞してくれる人もある。おだてちゃいけない。健筆と言っても走り書きならあまりヒケは取らぬ。その代わり人様には分からぬ速記文字である。原稿用紙に下手な紀行文などをダラダラと書きつける事も健筆と言えば言えぬ事はない。ただし画帳だけは怖れる。せっかくの酔いも一時に醒めた心地で極力固辞したがこの家の回し者と見えて八重子嬢もまた頑強に迫る。諸隈老までが口を添えて切りに「揮毫」を強いられる。嗚呼、団長たるまた辛いかな、我輩は答辞や演説なら何時間でも引き受けるが揮毫だけは困ると泣き顔であやまるが許されぬ。


ここにおいて我輩、大いに考えた。今後かかる視察団の団長たる者は左の資格を必要とする。


一、 容貌魁偉にして美髯の所有者なる事
二、 語学堪能にして弁舌爽やかなる事
三、 ダンスが出来てゴルフがうまい事
四、 揮毫を要求されて驚かぬ自信あること
五、 品行円満にして団員を満足せしむる事


などと逃げを張ったが、八重子嬢の一念ついに墨を磨(す)り筆を押しつけるに及び我輩も完全に参った。急遽句を案じて成らず。不得己(やむをえず)少し不似合いとは思ったが旧作一句墨痕淋漓(ぼっこんりんり)として、

 

虻(あぶ)一つ大きく舞ふて去りにけり  春楓子

 

とぞ記されける。もとより酔余の一擦、それこそ天空海闊(てんくうかいかつ)、奔放自在、天地左右もあらばこそ、画帳の天辺から書き下した。こんなのを正に達筆と言うのであろう。それでも主人側は大喜びで将軍からのお墨付きでもあるかのように大切がられたのには益々もって恐縮赤面の至りであった。


諸隈老も大満足でさらに自動車を駆ってパコ・ステーションの方面に押し出し、案内されたのがマニラでも有名だというダンスホール、サンタアナ・キャバレーであった。我輩も大概の事には驚かぬ修養は出来ているつもりだが、このダンスホールだけは少し驚いた。見渡す限りの大ホールに小テーブルが無数に置かれてあるが、落ち着いてよく見ると内側と外側の二列ある。内側のテーブルにはダンサー三四人が待機の姿勢で構えているが、テーブル数片側だけで三四十にも余り四方の分を合わせると(長方形ではあるが)約百個ばかりはある。仮に三人宛てとしても三百人のダンサーがいるわけだ。外側のテーブルは御客の座席とでも言うのか紅毛人も黄色人もあちこちにたむろしている。見れば団員中、内地組の連中もいる。彼氏達はバリクパパンでも貴重なる夜間の時間をダンスホールにエンジョイしたほどの勇士である。マニラに来ても十分日本の国威を宣揚してもらいたいと思った。事実その二三子はとてもステップがうまいのでこれなら大丈夫と大いに人意を強くした。


諸隈老の指図である座席を占めたが、七十翁が覚束ないように見えて案外確かな腰付きでダンスをされるにはコチラが気恥ずかしくなる。外国に出たらダンスを知らなければ駄目だ。従来ダンスと言えば直ちに善良なる風俗を害する惰弱なる遊戯と考えていたのは全く固陋(ころう)の考であった。老の命令でダンサー(多くはフィリピン人、中には混血児もある)が三人ばかり後列のテーブルに来たが、我輩が頼りない英語で愚問を発しながら何気なく「まあこちらへ」と手を取ったのがお気に障ったのか、間もなく一人去り二人去り誰も寄りつかぬ。老が「嫌われましたな」と言うのでハッと思った。彼女らもホールを出たら如何なる生活をしているか分からぬが、ホール内における神聖なる職業婦人としては淑女の礼をもって待つべきであった。今回の旅行中最大最悪の失敗はこれだ。何ともはや面目ない次第である。右様な始末で前掲「レガスピー・ランディング」に立ち寄る勇気もなく、12時前帰船したが、思えば今日は多事な一日であった。

 

11月13日、天候曇り(正午気温80度)昨夜の約により9時頃諸隈氏来訪。共に郊外ワクワクのゴルフリンクスを訪れる。主として日比人の共同経営で18ホール立派に完成している。ことに驚いた事はレディーのために小さいコースが別に用意されている事である。いかに婦人尊重の国柄とは言いながら、これまでとは思わなかった。両人ともプレーは試みず、色々経営上の事や競技方法など問い試みて引揚げた。池田華銀子、大野塩糖子などは例により大いにクラブを振っていた。領事館に内山総領事を、三井物産に河村支店長を訪問、何れも敬意を表し、最後に太田興業に帰り改めて諸隈氏に御礼申し上げた。


その途次エスコルタ街を通行すると、ここはビジネスセンターとして各国の銀行、会社、取引所、商店など櫛比し、マニラ市の心臓部をなしているとは承知していたが、それにしても人出があまり多すぎると思って問いただすと、取引所仲買店などもこの辺りに集中しているため最近流行の「ゴールドラッシュ」で一株十セント(ただし百株単位)の株主達(中には富豪、軍人などの家族もある)がその日の株価の上がり下がりを目当てに血眼になっている。その連中が右往左往しているからとの事であった。事実フィリピンの産金は昨年中4億4千比ペソに及び経済界もこの影響で活気を呈している。


またもや諸隈氏の案内で、ササクペラルの日本総領事館に至り数名の陪賓と共に内山総領事の招待を受け、午後は単独でアベンタ・リサール街まで行き、邦人商店の進展振りを親しく目撃し、午後2時半帰船した。


午後3時半から4時半までの間、例によって船内茶話会が催される。昨夕我々共を招待してくださった方々やその他の人びとも多数来集されて、いと賑やかに笑いさざめいた。山村八重子嬢より特に団長へとして真紅の薔薇を舟形の手かごに入れて持参されたのは、光栄でもあり恐縮でもあった。内山総領事の挨拶に前日我輩の述べた海苔巻き式の視察もまた可なり、の一節があったのは流石に外交官畑だけある。


午後4時50分マニラ出帆、湾口北水道に向かう。ただし出帆と同時に時計一時間後退、台湾の標準時としたから実際は午後3時50分であった。以後台湾標準時による事、勿論である。台湾においても内台間時差撤廃問題が起こり、現に実行されんとしている。

 

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