赤道を横切る:第39章 マニラ(その2) | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

赤道を横切る:第39章 マニラ(その2)

今回は、二人のフィリピンの志士が登場します。ひとりは、ホセ・リサール。もうひとりは、ベニグノ・ラモスです。
ホセ・リサールは、ルネタ公園(別名リサール公園)に今も銅像が建ち、フィリピンの紙幣や切手にも肖像が使われ、その生涯は映画化もされるという、押しも押されぬ建国の英雄として今も尊敬されています(写真下)。

 

一方のベニグノ・ラモスの評価は複雑です。後世の評価などを気にしていては、革命家にはなれない。確かにその通りでしょう。ケソン大統領とラモスは一時は志を同じくしますが、ケソンは米国に付き穏健的な独立を目指し、ラモスは日本と結んで急進的な独立を目指す事になります。どちらが正しかったのかというのは虚しい質問でしょう。歴史は常に勝者によって書かれると言われますから。
文末にある「日本での白昼帝都の擾乱」とは、その年(昭和11(1936)年)の2月26日に発生した二・二六事件を指します。当時、日本に亡命していたラモスは、日本の右翼論客等と交流し、フィリピン独立を画策します。この辺りの経緯は、坪内隆彦氏のホームページが参考になります。

 

次にアスカラガ街(今のレクト通り)ビッドの監獄前で下車。又もや監獄見物との事だが、サンボアンガで経験もあるから左まで驚く事当らぬ。殊にマニラの監獄は昔から有名で随分耳にタコができるほど聞かされている。周囲は頑丈な石垣でめぐらされ、構内20エーカー、約4千人の囚徒を収容しているとの事、監房は中央の高塔を中心として放射状に排列せられ、通風採光の衛生に注意し秩序すこぶる整然としている。また1千名を収容しうる大病院も附属し、ほかに農業部、工業部などもある。毎日午後4時半頃、米国旗の引下式を行うことになっているが、その際囚徒一同が広場に出て敬礼を行い、引続き音楽体操を始めることになっているので、その時刻を見計らい入場する者が多い。我々一行は時間の都合で正午前に行ったため体操は見られなかった。


案内の邦人諸氏から前もってアレンジしてあったため直ちに入場できたが(一定の料金を支払うという話であった)信号台からの合図で鉄門がスーッと開く。一団入り終わるとまたスーッと閉ざされる。二重三重の鉄門が開いては入れ、閉じてはまた開く。突然脱出したくとも合図のない間はピタリと閉じられたままだから中々突破できかねる仕組みになっている。


指示された鉄板作りの階段を上っていくと、幅1メートルばかりの長い高架道が中央見張所高塔に続く。高塔の周囲には五六列の板敷きがある。広場は眼下にあって見下ろすようにできている。普通獄舎や重禁獄や死刑執行場なども一目瞭然である。囚人の監督係などもあって仲間を取り締まっている。以前は男女共収容したが1932年以来女囚を他に移動したとの事。囚人の生産品は事務所の内外で適宜販売され、時には外部の注文にも応ずる事もあるそうだが、サンボアンガの監獄のように是非お買い上げを願うという話はなかった。


再びサンタクロス橋を渡り郵便局からルネタ公園に出て、リサール銅像前で下車する。海岸に面した芝生公園は広々として誠に気持ちが良い。「ホセ・リサール」はフィリピン第一の大偉人と崇敬されている。幼にして海外に学び、6カ国の言語に通じ、著書によって祖国の窮状を世界に訴え、スペイン政府の悪政ならびに僧侶の跋扈を非難したので、スペイン政府は非常に驚き、当時スコットランドにあったリサールを欺き帰国せしめ、ただちに獄に投じ、ついに死刑の宣告を受け、1886年12月30日わずかに35歳を一期としてこのあたりの露と消えた。フィリピンが米領に帰するやフィリピン人は直ちにこの国士を永遠に記念すべく、銃殺された場所にこの記念碑を建立し、毎年12月30日を公休日とし全島民から追憶されていると言う。マニラ湾に向かって屹立せる等身大の銅像は眉宇に精悍の気が溢れている。


ここで一応解散、午後は自由行動とあって有志は本船に帰らず、ただちに志す方向に向かう者もあった。11時30分帰船。埠頭に近いレガスピー・ランディングと称するポイントにはレストランのようなものがあって、チラリと清楚な女性も見受けられた(この夜進撃のつもりであったが遂に目的を果たさず誠に残念であった)。


午後山村老人の御案内により河向こうの支那料理店で午餐のご接待にあずかる。旧知の諸隈彌策氏や華南銀行の宮田美儀(みのり)氏、副領事の木原次太郎氏なども同列であった。70何歳というお歳と言うのに元気溌剌、若い者くそ食らえの有様である。船中童貞会と称するものができて、周航40余日各地の難関をようやく突破し来たった。我々もその一人であると自家宣伝に及ぶと「そんな事が何の自慢になる。若い時はつまらぬ遠慮は無用だ」と仰せある。お陰で我輩も若い者と見られて光栄であった。山村老はケソン大統領とは久しい間の友人で、先頃までバギオにあって国賓同様の待遇を受けていた。ダバオ土地問題で色々問題の起こっている際、大統領が指定した宿泊所が土地局長か何かの別荘であった。山村老といい、諸隈老といい、現在のフィリピンとしては最も大切な邦人というべく是非長生きしてもらわなければならぬ。酒間、色々とお話も承ったが、公然発表しかねる部分もある。午餐後、中村、丸野両氏の希望でマニラ郊外ラグナ州カンルバンにあるカンルバン・シュガー・エステートを見学する事となり山村老も同伴してくださる。郊外と言っても数十キロの距離はある。もっとも道路は全部舗装されているからスピードは相当に出る。途中サクダル党が最近暴動を起して鎮圧されたという村落を通過する。


サクダル(Sakdal)とは一寸翻訳できかねるが「壮者」とでも言う意味らしい。十年後独立などと呑気な事は言っておられぬ。即時断行だといきり立つ過激派と思えばまず間違いない。ベニグノ・ラモスなどという人物が牛耳をとって、本人は現在日本にいる。新しきフィリピンを研究する人びとにとりサクダル党の動向は考慮に入れておく必要がある。最近の騒ぎというのは10月3日各所の水道を破壊し、幾ヵ所かに放火し、マニラを占領し大僧正ならびに米国高等弁務官など政府高官を暗殺せんとしたのだ。日本にも白昼帝都を擾乱(じょうらん)せしめたお手本があるから余り言わぬが花かも知れぬ。

 

なお、本書は著作権フリーですが、このブログから複写転載される場合には、ご一報いただければと思います。今となっては「不適当」とされる表現も出てきますが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解ください。