赤道を横切る:第37章 サンボアンガ(その1) | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

赤道を横切る:第37章 サンボアンガ(その1)

当時のサンボアンガ市街

 

今回は、明治大学野球部創生期に活躍した山村一郎氏が登場します。大正時代の初期には、プロ野球は存在せず、日本の野球界をリードしていたのは大学の野球部です。


当時の大学野球部は、非常に国際的でした。明治大学野球部もアメリカに遠征し、そこで山村一郎選手はエピソードを残しています。内角の厳しいボールをストライクと判定され、敗北を喫するやそれに激昂し、白人審判をバットで殴打したと言うのです。いやはや、熱血漢ですね(笑)。この事件は結果として無罪とはなりますが、警察沙汰となり問題化しました。それでも、当時アメリカに移民して差別的な扱いを受けていた現地の日本人からは、拍手喝采を浴びたそうです。山村一郎の所属する明大野球部は、フィリピンで開催された「極東オリンピック」にも遠征し、優勝を飾っています。


まさに加山雄三の『若大将』のような学生生活を謳歌したのでしょうね。改めて、戦前に海外に雄飛した人たちのバイタリティーには驚かされます。大企業や組織に属さず、見ず知らずの土地に飛び込み、現地の人々と事業を興し成功へと導いた人たちが、山村氏以外にも無数にいたはずです。先達に敬意を払うと共に、現代の日本人の覇気の無さに嘆息するのは私だけでしょうか。


なお、三巻俊夫が絵葉書を贈っているのは、山口中学時代の同級生、戦前の日産(日本産業)グループ総帥の鮎川義介です。鮎川義介は、山口中学、旧制山口高校から、東京帝国大学工学部へと進むことになります。その後、戦争も起こらず、鮎川義介が自ら描いたという絵が台湾に残っていたら、『なんでも鑑定団』で評価してもらうのだが……と惜しい気がします。

 

11月8日、快晴静穏、気温84度、一向南洋らしくもない。終日読書、5時バシラン島を左船に見てミンダナオ島の西南端サンボアンガ無線柱を目標に転針、小サンタクルス、大サンタクルスの二島を眺めながら同5時50分同港着、桟橋に繋留、ダバオよりの航程322カイリ、山村君はじめ邦人一同出迎えに出ておられるが潮流の都合でブリッジのない左舷横付けとなったため、その付け替え作業に相当手間取り中々水陸の連絡が取れぬ。土人の物貰いが分からぬ事をしゃべりながら銀貨を強請(ゆす)る。ようやく7時過ぎになって上陸、山村君とも久闊を叙すると、ともかくサンラモンの監獄だけ見物する段取りになっていると言う。ケソン時間の午後7時半は標準時の6時半だが、それでも夕陽すでに西に落ちて、逢魔ケ時の椰子林はいささか物凄い。一体全体何をおいてもまっ先に監獄を見せる了見が分からぬ、殊に夜間普通人の入門を許す監獄ありとは一寸了解ができかねる。などなど一行中にはかなり奇異の思いをなした者もあったが、この辺が四角四面な日本のお役所と違うところで中々味がある。


サンボアンガから西南7キロ、カワカワと称する土人村通過、ニップ葺(ふき)の掘立小屋が海中に突出して黒ずんだ椰子がその影を水にひたしている風情は又なく美しい。丁度その景色を写した絵葉書があったので東京の鮎川義介氏-わが中学時代の同窓-に贈ったが、帰台後程経て彼氏自身彩管(さいかん:絵筆のこと)を揮った額面が届けられた。それは紛う方なきその絵葉書すなわちこの辺りを描いたものであった。やがて椰子林を突き抜けると厳しい鉄門が見える。それが即ちサンラモンの監獄で、典獄その他の官舎も海岸沿いに建てられてある。


門前には典獄自ら出迎え、握手を交わしながら快く請じ入れる。二重の門扉が開かれ獄舎に近づくと、折から夕食後らしくガヤガヤと囂(かしがま)しい。中には提琴をかき鳴らす者、俗歌を放唱する者すらある。何とノンキな監獄風景であることよ。聞けば囚人中従順で勤勉なる者は「トラステー(Trusty)」と称して仮出獄を許し家族と共に付近に居住せしめ、毎日一定の服務時間だけ通勤せしめなお家族の生活費まで給与するとの事、されば監獄出身は就職にも困らぬと言う。免囚保護事業も必要はない。


囚人は六七百人もいるらしく大部分モロ族であるが支那人もいる。日本人も現在一名だけ収容されている。それかあらぬか「こんにちは」と声をかけた者がある。


導かれて一室に入ると、そこには囚人の製作品が所狭きまで並べられている。何か記念のため一品宛でも購入してくれと言う。さては夜中開門見物を許したのも製作品販売のためであったよなと直感したが、珍しい黒檀の製作品や籐(とう)のステッキなど土産には格好なものが沢山ある。我も我もと争うてアレコレと選択に大わらわだ。一時に80人の買い手が殺到したので売り手の方も面食らったがかなりの売上ではあったらしい。手に手に船様のものや長手にものを携えて出て来る。団長も釣り込まれて案内の邦人各位からペソ銀若干一時拝借におよび、螺鈿(らでん)の盆や黒檀の本立てなどお買い上げ遊ばした。この監獄はこの製品販売の他附属農場約2500町を有し、椰子、芭蕉、玉ねぎ、米などの耕作、牛馬豚、鶏などの飼養を行っている。我々の辞去するに際し典獄は一々自動車番号を問いただして自ら高らかにその番号を呼ぶなどホテルのマネージャー以上にサービスしている。まったく商売人だ。最近台湾からも鶏か何かを仕入れて大量生産しているとの事、全く以て敬服の至りである。


サンボアンガ市中に引返し、ホテルで山村氏用意のフィリピン料理と言うものを頂戴に及ぶ。大鉢に盛り切りの漢洋折衷煮込み品を小皿に分け取って思い思いにパクつくという趣向、ドリンクもバーも勝手にやれと開放されている。なるほどこの式も面白い。人員不足の場合などには適当の歓待方法である。


山村一郎君は以前明治大学出身の野球選手として台湾でも相当に鳴らし、台湾製糖に入社して勤勉振りを認められていたが、父君楳次郎君共々バシラン島に着目して椰子栽培事業に従事せし以来、二十幾年の若さをもって渡来、爾来約二十年に近く孜々営々(ししえいえい)としてその経営を続けている。


事業地はサンボアンガの対岸17カイリバシラン島の一角、すなわちマニラよりスールー海を一直線に南下し、セレベス海に出でんとする地点スールー群島の起点に当り、地位から言っても地勢から言っても軍事上から見ても重要なポイントであるように思われる。遠く望めばスロープになった前形の山脈から海岸にかけて一帯の平野がある。その500町歩の椰子林は累々として結実している、しかしてその土地はケソン大統領によって公然パテントを得、その所有権を承認されていると言うから愉快だ。


この椰子事業にも相当受難時代はあったが、今や多年の苦心は酬いられ、ことにコプラ市価の上騰と共に昨今大いに景気が良いようである。少しくらいご馳走になっても良かろう。なお島では椰子以外種々有利な事業を計画中、殊に所有地内から砂金が出るかも分からぬと言う超特級のニュースもあり、いよいよ以て大切な土地となってきた。


その椰子園も以前は某英国人の経営であったが、何らかの行き違いでモロ人に殺害された。その後を引き継いだ山村氏は獰猛凶悪な土人に対して恩威並び行い、今日においては絶対の信頼を受けつつある。その椰子栽培法も彼氏独創に出で、これを付近蛮族の椰子園にも及ぼしている。モロ人の寓語「椰子は話す」からヒントを得て椰子の一本一本からその話さんとするところを聞き、これに対応する処置を採った。すなわち全園4万1千本の椰子に対し一本ごとに名称を付しその経歴、健康状態、生産などを記録し、椰子樹自身の要求に応じてそれぞれ適切なる手当を加えるのだ、かくする事によって全園の椰子も一本一本に生命を保証され躍動することになる。世の事業家たるもの以て範とすべきではないか。

 

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