赤道を横切る:第36章 ダバオの産業 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

赤道を横切る:第36章 ダバオの産業

ダバオ南西にそびえるフィリピンの最高峰アポ山です。

アポ山は昔と変わらず気高く見えます。しかし下界はどうでしょうか? 最近のニュースではミンダナオ島は、戒厳令がひかれ緊迫した情勢のようです。

 

戦前のダバオには、麻やヤシを栽培して一攫千金を夢みる日本人が大挙して入植し、1万人を超える日本人コミュニティーが存在していました。

 

しかし、ここでも指摘されるように、日本人コミュニティーはフィリピン社会から孤立していただけでなく、コミュニティーの内部にも深刻な対立を内包していました。それは日本の内地からの入植者と沖縄からの入植者の間の対立です。今回の記述にも、茶話会に日本人会の代表と沖縄県人会の代表が出席しています。日本人会と沖縄県人会は対抗する団体だったのです。

 

われわれが沖縄について語る時、どれだけ戦前、戦争中、戦後の事実を知り、それらを総括してきたか、あまりにも底が浅く、表面的なのではないでしょうか。戦前のダバオは、それを理解する典型例の一つだったのです。

 

ダバオ州にマニラ麻が栽培されたのは80数年前のことで、その繊維的価値が認められ、世界的商品となった頃より約20年の後である。
1898年、比島の主権が米国に帰して後、米人のこの地に着目する者少なからず、早くも1905年の頃にはダバオ湾を中心として沿岸各地に小規模ながら40余の麻栽培会社が設立された。太田氏がダバオ入りしたのも正にその頃であった。その後、種々の消長を経て最近では比島重要産業の一つとなっている。

 

1933年調査
比島麻生産高       1,227,987 俵(ベール)
同上麻輸出額       13,748,749 ペソ
南ミンダナオ生産高    508,430 俵(ベール)
内日本人生産高      377,000 俵(ベール)

 

「アバカ」は一町歩に千株を植えられる事になっている。而してその生産費は1ピクル(東南アジアの単位:約60キログラム)7、8ペソくらいだから一時4、50ペソにも騰貴した時はそれこそ全盛時代で我も我もと押しかけたが、たちまちにして不況時代来たり、また盛り返すという調子で相場は安定せぬ。しかし植え付けて2年くらいすれば成熟するし、15年くらいはそのまま分蘖(ぶんけつ:一つの株から枝分かれすること)していく。台湾のようにタイフーンの心配はない。15年後、肥料を与えればさらに地力を恢復するという訳だから麻価が相当の市価を保っていれば永久的事業である。昨今17、8ペソから20ペソ前後となったので何れもホクホクである。次はヤシのお話、ヤシは明治30年頃から栽培を始めたが、南洋全体で15万ヘクタール、即ち台湾の耕地と畧々(ほぼほぼ)同じだけの面積になっている。邦人としては比島の4,500ヘクタール、蘭領印度4,500、スマトラ・ボルネオ2,500、マレー半島1,500、合計13,000ヘクタール、2000万円の投資となっている。


ヤシは、約10メートルの間隔に植えるから一町歩に約百本植える。成実期は植付後7、8年、収穫は一本で一年7、80個、約250個のヤシの実から1ピクルのコプラ(ヤシ油の原料)がとれる。すなわちヤシ樹3本につき1ピクルの割であるから、一町歩から30ピクルくらいの収穫がある。生産費はピクル3ペソくらい、現在の市価7.7ペソだからヤシも昨今は景気が良い。


ヤシも暴風の心配はないが、野豚、野ネズミ、鹿、サルなど野獣の被害が相当であるのと収穫までの期間が長いため管理困難が伴う。仲買人はスペイン人が多く大部分石けん、人造バター製造用として米国に輸出せられる。

次にダバオ邦人に関する統計を羅列してみる。


在留邦人数 (昭和10年10月1日現在)
(1)農耕者     5,286人
(2)会社員・店員  516人
(3)工業製造業   296人
(4)漁業      191人
(5)商業      165人
(6)製材業     143人
(7)その他     428人
小計         7,025人
婦人小児       6,510人
合計         13,535人

 

右の中、沖縄県人最も多数である。最近日本人会幹部総辞職などの事あり、とかく邦人間円満を欠くとの話を聞くのは遺憾である。
(中略)

 

ダバオには金融機関が必要である。一般には台拓の投資を希望している。同行の池田華銀子も何らかの企画があるのではないか。ダバオについてはこの他なお見聞少なからねど、あまり書いては拙者の迷惑、読者の退屈、まあこの位にしておく。


午後1時出帆と聞いて急いで零時半までに帰船してみると、それは標準時の午後1時の意味であったからケーソン時間では午後2時に当る。一時間だけ見物時間を短縮して損をした。何のことだ、軽損軽損は洒落にもならぬ。


例によって主催者側から在留邦人招待の茶話会が開かれる。万緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん:大勢の男性の中に女性が一人だけいる時のたとえ)として柴田領事令嬢が目に立って美しい。中谷技師持参の珊瑚見本に婦人令嬢が見惚れておられる。各地における展示を陪観して我輩も大分ご婦人の嗜好が分かったような気持ちがした。


来船の方々は柴田領事ご夫妻令嬢をはじめ、松本勝司(古川)高橋健(太田)大本徳太郎(日本人会専任幹事)上原仁太郎(沖縄県人会長)吉川有喜(三井)大塚整司、清水茂(松岡興業)の諸氏でその他新聞関係ではダバオ新報、日比新聞、ダバオ公論、ダバオ毎日ニュースなど意外に優勢である。大塚、清水の両氏ほか松岡社長からの指図によってワリンワリンと胡蝶蘭を数株持ち込まれたが、その荷造りの頑丈なると大袈裟なのに驚いた。もっともこれは多年の経験で途中の危険を慮っての事であるとのことである。ワリンワリンは近来輸出が難しくて特に税関のライセンスが必要であるとのこと、フィリピン土産としてこれに越すものはない。船中の手当は、一切を夜牛蘭狂子に一任した。


午後1時50分ダバオ出帆、フィリピンの最高峰9,410フィートのアポ山をはじめマッキンレー、ルーズベルトの連峰とその傾斜地一帯ダバオ平野を振り返りながら、タリクド島を後にして再びダバオ湾を南下し、サンボアンガに向かう。同地にある山村一郎君は20数年前台湾製糖に勤務していた関係上一行80名を晩餐に招待したき旨中村台糖子まで無電が届いた。一個人の招待で団体全部が厚かましくまかり出るのも如何かと遠慮して少数者に限られたき旨返電したが、折り返して簡単なるフィリピン料理だからお気遣いには及ばぬ、既に用意したと入電があったから文句なしにその厚意を受けることにした。

 

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