赤道を横切る:第35章 ダバオ(その1) | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

赤道を横切る:第35章 ダバオ(その1)

一行は、マレーシアからいよいよ最後の訪問国であるフィリピンに到着します。フィリピンの最初の寄港地はダバオです。当時のダバオには大きな日本人のコミュニティーが存在し、その数は1万4千人と三巻俊夫は記しています。上の写真は当時のダバオ市内、日本本土と言っても分からないほどです。

この旅行記の5年後に始まることになる太平洋戦争での悲劇を忘れてはならないと思います。ダバオを含むミンダナオ島は激戦地となりました。日本軍が山岳地帯に逃れ食料も尽きて悲惨な状況に陥ったことは戦史に書かれています。しかしそれと同時にこの地に住んでいた一般市民の悲劇についてはあまり知られていないのではないでしょうか。終戦までに犠牲になった日本人住民は1万人とも言われています。住民はその大半が犠牲になったと言っても過言ではありません。営々とした努力で築いた財産も生活基盤も、一瞬で奪い去るのが戦争であることを改めて肝に銘じたいと思います。

 

11月6日、払暁フィリピン、ミンダナオ島南端チチカ角灯台を望み、漸次ダバオ海湾に転針、午前9時カリアン角通過、奥行き70カイリ、横幅35カイリの湾内に侵入してフィリピンの山々を眺める。午後1時25分タリツクド、サマル両島を右に見て2時10分ダバオ港着、タワウよりの航程566カイリ。この日正午気温83度。


ダバオ到着と同時に時計が一時間進められてケーソン夏期標準時となった。つまり日本の標準時と合わせる事になる。台湾においても時差撤廃の説がある。これは学理上からと実際上からと賛否両論あるようであるがケーソンの考えは勤務者に対し、退庁、退店後明るい間に運動なり散歩などの時間を与えたいと言うにあるらしい。他にも重要な動機があるかも知れぬが、要するに早く起きて早く寝る事になるからどちらにしても同じ理屈だが従来の習慣に慣らされている一般人にとっては当分の不便は免れぬであろう。


ダバオにおいても着港と同時に柴田領事以下多数邦人の出迎えを受け、午後4時半上陸(従来の3時半、以下フィリピン航海中全部ケーソン時間に従う)日本領事館に領事柴田市太郎氏を訪問し御款待を受け次に向かい側の日本人会並びに小学校を視察し、それより本日は自由行動となったが、外泊希望の者はそれぞれ旅館に引き取り他は市内見物の上帰船した。


我輩はかねて松岡台湾新聞社長の事業地がこの地にあることを承知していたので、是非一見したい希望を有し、同志の佐藤、岡野両氏と共に自動車を飛ばして出かける事にした。その事業地と言うのはダバオの東部に当り、以前は小船で海上を渡り到底一日では行けなかったところであったが、今は坦々たる舗装道路ができて一時間余りで到着する。


松岡興業998町、他に付近パナホ411町、プラワン488町共にその事業地となっている。成熟したアバカが青々と続く事業地の只中に自動車を乗り込ませて縦横に馳せ廻る。行けども行けどもアバカの森だ、麻挽工場も見学したが至極簡単なものだ。ジャングル焼きからここまでに仕上げた苦心は並大抵ではあるまい。その後他から聞けば松岡興業の従業員は、どうしてもモノにすると粉骨砕身、一同申し合わせて酒タバコまでも絶ったと言う。その精進振りには感心させられる。今では他の農園の麻に比して割高に売れるほど優良品ができるようになったと喜んでいる。努力だ。何事も努力にはかなわぬ。


ここでも妙な事を聞いた。フィリピンでは台湾人は支那人と同様に取り扱い移民として入国不可能との事である。日本国籍なるものを差別的に待遇するとは解しかねる。夕闇ようやく迫る頃車を返してダバオに入り、さらに反対方角すなわち西部の方にカッ飛ばす。その途中名物のバッタが自動車に轢かれて点々道路に討ち死にしているのを見る。ダバオの町をぬけて古河拓殖の松本勝司氏宅に赴く。それは先刻特に我々二三子に好意を伝えられたため御言葉に甘えて御厄介になるためであった。勝手を知らぬためダバオ市内と思った御宅がなかなか遠い。ようやく探しあてて到着したのが午後8時(実際は7時だが)同行の両氏には誠に御気の毒であった。さっそくバスを頂戴に及んでウイスキーを引っかけグッタリとなった、セブから来たというフィリピン女中が淑(しと)やかでまめまめしく働く。女中のことをムチャムチャと言う(娘のことはドラガと言う)こちらも無茶苦茶に上機嫌でフィリピン事情を承り、やがて一室を与えられて安眠した。


11月7日、午前中ダバオ見物の予定である。同宿の小田、井上両氏は昨夕背後の吉田山に登り眺望をほしいままにしたとの事を聞き、特に大奮発で5時起床、軽い朝食を済まし、松本氏の尽力で我輩だけ案内をつけてもらって吉田山に登ってみた。このあたりはバヤハス拓殖株式会社社長吉田円蔵氏の耕作地で、吉田氏は明治36年ベンゲット移民として渡比し、38年4月ダバオに上陸し、麻挽労働に従事し、敢然バゴボ族蕃人の中に飛び込み、酋長の信頼を得てその娘を貰い受け、それが縁故で現在数千町歩の所有者となっている。吉田山はその一部にある高地で遊園となっている。なるほどその一角に立って眺望すればアポ山を背景としてダバオ平野脚下に横たわり、遠く未墾原生林も続く。現在目の届く限りのアバカ畑も30年間は人も通わぬジャングルであったかと思えば、折から昇る日輪を拝しながら何とはなしに敬虔の念に打たれた。吉田山に登ったおかげで本日の予定行動につき大体の方角を知る事を得たのは仕合せであった。凡そ大観は高台よりするに限る。事物の観察でも高処大処よりが肝心である。


山より下りて本日の集合場所であるタロモの太田興行事務所に至り、同宿の二氏並びに団員一同を待ち合わせ、同社の麻仕分け工場を視察し、ただちにミンタルに向い、ダバオの開祖太田恭三郎氏の記念碑前で下車、謹んで先人の霊に心からなる敬意を表した。


太田氏は明治38(1905)年、マニラ、バギオ間ベンゲット道路の築造に当たった日本人労働者1500人の内約180人を引率してこの地に来り、麻栽培に従事せしめ、明治40年5月太田興行株式会社を創立し、ダバオ発展の基礎を築いた。大正6年42歳を一期として不帰の客となり、同15年3月、日、比、米人の拠金と協力とによりミンタルの丘にこの記念碑を建てられたのである。邦人今や1万4千に垂れんとしている現状に対し、故人の霊もさぞかし地下でほくそ笑んでいるであろう。


記念碑の西隣にミンタル日本人尋常小学校がある。在外指定校で在学児童321、タバオにおける十校中最大のもので日本人会の経営に属している。ついでにその付近にある太田興業経営のO.D.C.病院も一覧してこの地を去り、ラミー試験地を過ぎさらに同社付属の麻挽工場に廻り、それより古河拓殖の農事試験場に立ち寄り、ダリヤオンの古河工場(普通の麻挽機械によらず製糖工場同様の仕掛けにて圧搾し繊維を抽出す)椰子殻皮処置に関する工場並びにコブラより菓子原料製造の新式デシケート・ココナツ工場等を視察して、同社の麻仕分け工場の壮観さも一見し、事務所前広場に用意せられたる歓迎会場に入り、丁重なる接待を受けた。

 

なお、本書は著作権フリーですが、このブログから複写転載される場合には、ご一報いただければと思います。今となっては「不適当」とされる表現も出てきますが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解ください。