日曜日には鼠を殺せ | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

日曜日には鼠を殺せ

日曜日には鼠を殺せ(Behold a Pale Horse)

監督:フレッド・ジンネマン
脚本:J・P・ミラー
原作:エメリック・プレスバーガー
製作:フレッド・ジンネマン
出演者:グレゴリー・ペック、アンソニー・クイン、オマル・シャリーフ
音楽:モーリス・ジャール
撮影:ジャン・バダル
1964年 アメリカ映画

 

人には自分だけの宝物のような映画があるものだ。その内の一本、フレッド・ジンネマン監督の『日曜日には鼠を殺せ』について書こうとしているのだが、ふいに五木寛之の顔が思い浮かんだ。それは、痩せて顔色が悪く目つきだけが鋭い『青春の門』の伊吹信介そのもののようだった若き日の五木寛之ではない。『生きるヒント』『他力 大乱世を生きる一〇〇のヒント』『大河の一滴』『天命』などベストセラーを連発する「人生の達人」風の老いたる五木寛之である。

 

何を言いたいか。人間には生き場所と死に場所がある。これを死生観という。古今東西、哲学も宗教も芸術も、すべては死生観をもってつながっていると言っても過言ではない。死生観とは人間存在に対する永遠の問いであり、おそらくその解も永久に得られない。だから「人生の達人」などすべて偽物なのだ。

 

五木寛之を俎上にあげるつもりはない。五木はある意味で典型なのだ。生き場所と死に場所を間違ってしまった悲劇的な人間なのだ。想像してほしい、あの伊吹信介が年老いて、ベストセラー随筆を量産し、調度の整った応接室で鷹揚に人生論を語る姿を。私の価値観では、それは見るに堪えない醜悪な晩節である。

 

五木寛之の前半生にも似て、フレッド・ジンネマンもまた、祖国オーストリアを離れ、ヨーロッパを転々とし、やがてアメリカに渡り、ハリウッドで映画の世界に足を踏み入れたデラシネ(根無し草)である。ハリウッドの商業主義に背を向けた反骨漢であったために、生涯に撮った作品の数は決して多くはない。彼の最後の数作品、『日曜日には鼠を殺せ』をはじめ『わが命つきるとも』『ジャッカルの日』 『ジュリア』はいずれも、歴史の一コマにおける生と死をテーマにしているのだ。

 

『日曜日には鼠を殺せ』は、スペイン内線終結からすでに20年を経過した、1960年頃のスペイン・フランス国境地帯を舞台にしている。主人公、グレゴリー・ペック演ずる初老の亡命ゲリラ隊長マヌエルが隠れ住む南仏のポーの町は、白黒の画面の中で陰影に富んでいる。フランスとスペインを分かつ国境に横たわるピレネー山脈の峠も美しい。特にグレゴリー・ペックがスペインに戻る決心をした時に通過する切り通しの場面は印象的だ。

 

主人公マヌエルに対して20年間も敵意と殺意を抱き続ける執念の警察署長を演じるのは、アンソニー・クインだ。『レ・ミゼラブル』におけるジャベール警部のような人物設定だ。マヌエルを追い詰め、罠を作り、殺すことだけを目的にしている男。最後に目的を達した後、彼の胸に去来するのは達成感とは対極にある虚しさであった。いや、虚しさ以上の神への罪の意識である。警察署長にはマヌエルを憎む理由などない。敵を作り出し、その敵への憎しみだけのために生きる。それはある意味では、価値のないもののために人生を費やす愚かな人間のある典型と言ってもよいだろう。

 

マヌエルを訪ねて危険を知らせる神父役は、この映画の翌年には『アラビアのロレンス』で大役を仕留めるオマー・シャリフである。若き神父は、初老のマヌエルと、延々とした青臭い議論を続けるのである、「正義とは何か?」などという。

 

結局、マヌエルは罠と知りつつ、スペインに戻る。殺そうと思えば、宿敵である警察署長も殺すことができたのではないかと思わせる場面がある。ライフルの照準器を一瞬署長から外し、裏切り者の密告者の方を狙撃するのである。マヌエルは多勢に無勢、あまりにあっけなく殺されてしまう。そして彼の死体は、先に死んでいた老いた母親の死体と共に安置される。聖母マリアとキリストが共に並べて安置されているような場面である。そう、マヌエルは自らの死に場所を得たのだ。

 

人間の価値は、死に方、死に場所によって決まる。死に方、死に場所を間違ってはいけない。