仕事で関わって繋がった友人が
中南米にもいる。

ハイチにも、いる。


友人3人のうち
2人の無事は確認できたけれど
1人はずっと連絡とっていなかったため
連絡が取れない。

無事であったうちの一人は
家族の一人を亡くした。


大きな悲しみに暮れる友人たち。

「ハイチ人皆が、誰かしら大切な人を亡くしている」

これは、ハイチ人の言葉だ。


大きな悲しみと
その悲しみを共有し、乗り越えて欲しいと
祈りを送る世界中の友人たち。
私も、その一人だ。


世界では、ハイチを助けようという行動が広がっている。


そのための大きな一役を買っているのがメディアだ。

だが、真実を伝えることが重要なのは理解できても
そこに人としての配慮が欠けていることは、
ハイチの人たちと、ハイチに友人を持つ人たちの神経を逆なでする。

世界的に有名なニュース報道機関も
地元新聞局で海外レポーターを努めるハイチ近くに在住の一般市民も

枕詞のように


「最貧国のハイチで」


を使う。


ハイチの友人Mが自分の掲示板で一言、発した。


「いまは、そんなことを取り上げている時じゃない!
 ハイチの貧困と、歴史、腐敗した政治について…!
 もう、そんなこと、やめて!今は!」


ハイチ人とハイチに友人を持つみなが賛同コメントを寄せている。

最貧国だから助けるの?

違う、

ハイチで悲しみを抱えながら生きようとしている
友人たちを何らかの形で助けたいからだ。


今、ハイチの貧困や歴史、政治について
それが被害を拡大させたかどうかなんて検討して
一人でも多く助けられる?
亡くなった命が戻ってくる?

その前に、時間が必要なのだ。
するべきことがあるのだ。

「今後のために」その表現をしているのだとしても。


祈り、

募金、

現地での行動、

いろいろな方法で

「最貧国ハイチ」の人でなく

「同じ地球に暮らすハイチの人々」を想うなら

答えは、NOだ。


Mの言葉を借りて繰り返すが



「ハイチの貧困と歴史、腐敗した政治」について再確認して何になろう。


ニュースは第3者の立場が必要なのだ。
それは、わかるけれど
悲しみに包まれている人に
癒しを与えず
更なる悔しさと悲しさと怒りを与えて何になろう。


私は、祈る。

亡くなった方々の冥福と

愛する人を亡くした方々への「so sorry」という気持ち、

助かった人たちの安全、

大切な友人たちを私たちが必要としていて、大切に想っていること。