最近、仕事柄だろうか。
開発途上国の人ってかわいそう?って考える機会が多い。

友人のchi-ttanともよく話すけれど
かわいそうってのは、なんか違うと考えている。
だいたい、かわいそうってのは、誰の基準なのか。

けれど、まっすぐ、
「わたしは、素直に彼らをかわいそうと思う」
「かわいそうという感情を持っただけでも大きな一歩だと考えたい」
という意見を聞くとき、それだって間違いではないかもしれないと
考えたりもする。

でも、私は前にこう話したことがある。
『自分が苛めた生き物を見て、「かわいそう」という感情が生まれますか?』

私たちが暮らしている今
児童労働や劣悪な環境のプランテーションや
自殺へ年間何万人もの生産者が追い込まれる綿や
そういうものが身の回りに無いと言い切れる人ってどのくらいいるだろう。
自分が加担しているかもしれないのに、彼らの生活を「かわいそう」と思うのは合っているのだろうか?
私は、「彼らがかわいそう」なのは、私のせいでもあると思っている。
急にボイコットをすることは、間違っているとも思う。
私たちが作らせた環境を、いきなり投げ出したら、そのために生活を変えた人たちが一気に食べられなくなるから。

フェアトレードだって、生産者がみんな、生産物を100%フェアトレードに出せているわけではない。
でも、少しずつ変えていける。みんなでやれば!

フェアトレードだけでは世界は変わらない、そういう意見もある。
もちろんです、こんなに複雑な世界だから。
でも、少しずつでも変えていこう。
絡んだ紐だって、初めは小さな一つの絡みから手をつけるじゃないか。

無理はしない。
みんなが長続きしないと意味が無いから。
少しずつ、みんなでさざ波を起こしていこう!