記紀に出てくるお神さんを順番に解説してこうかと思ったものの

いろいろとめんどくちゃ~><になったselaぴょんです^^;

で…ちょっと方向転換することにしました。

「記紀」を読んでもらおうというきっかけが作れればそれでいい!

ってことで面白ネタ(?)というか有名なお話を

気の向くままにピックアップしてくことにしましたよ^^

…その方が続けやすそうだしw

ってことで今回はあの超有名な岩戸開きのお話から

何でオモイカネの神がアメノウズメに踊りをさせたかってお話なのであった☆

本題に入る前に神道のお話…古代日本でのお祭りの概念?…から^^


日本での古代人の信仰は「太陽」の運行が中心にありました。

朝、東の空から昇る(生まれる)太陽、夕方、西の空に沈む(隠れる・死する)太陽。

それが季節や収穫、人の生き死にと言った人生観にまで及んでいたのです。

古代エジプト人の太陽信仰にも似ています。

昼の間太陽は天を巡り、夜は死者の国(洞窟=母親の胎内)を巡る…ってやつです。

古代の日本人も同じような考えだったようで

朝、東の海の向こうにあるお神さんの国(常世国)からやってきて生まれ

役目を終えた夕方、西にある死者の国(常夜国)に帰っていく。

日本語は漢字が違っていても発音が同じなら同じものを意味する言葉だったりするので

常世と常夜は同じ場所ってことになる訳ですねぇ~

つまりは、常夜は暗い闇とか穴の中だったりもするので

拡大解釈で、命(神も人も動物も)とは常世の国からやってきて女性の胎内に宿り

生まれ、人生を全うしたら再び死して常夜の国へ帰る…つまりは再び女性の胎内に戻る…

という輪廻転生の思想になっていった訳です。

ここで問題が一つ。女性だけでは子供は生まれないってことですよw

じゃぁ、どうやったら子供が生まれるか。

男性が必要なものを女性に与えた結果ってことですねw

そこで、神道の中では男性の象徴であるお神さんが東の常世の国からやってきて

巫女に新しい命(神)を与え、巫女から新たな神が生まれるってのを象徴的にやってる訳です。

それが神輿とか禊潔斎とかいろんな儀式に織り込まれて「祭り」の中に残ってるってことです。

事細かに解説するととんでもなく長くなるのでこのくらいにしておきますがw

ちょっとは理解していただけたでしょうか?


本題に戻します^^

岩戸に立て籠もり中の天照神を外に出すためにオモイカネの神はいろいろと思案した訳です。

どうやったら引きずり出せるのか。それも本人の意思など関係なしにw

そこに↑の思想がリンクするわけですねぇ~w

立て籠もったのは岩戸=真っ暗な穴倉 ってことですよ。

天照神は太陽神です。

真っ暗な穴倉つまりは夜の世界(常夜の国)に行ってしまった訳です。

再び常世の国からやってきて生まれ変わってもらう必要がある。

本人が素直に出て(生まれ変わって)くれればいいけど

そうじゃなかったら巫女に新しい「天照」を生んでもらおうとしたってことです。

黒いですねぇ~ww


アメノウズメは記紀ではお神さん扱いですけれど実際は巫女だった訳です。

巫女が新しいお神さんを生むためには、男神との交わりが必要で

そのために男神にその気になってもらう必要がある。

その気になってもらうためにはいろんな手管で気を引かなくちゃならないww

万国共通「踊り」はその意味合いがものすごく強い…

後はまぁご想像通りってことにしておきます。

記紀には常世の国からやってくるお神さんのことには触れてません。

古代の祭りの概念が神事のベースにあって、現代のようにその根源が

失われていなかった時代にはあえて記述する必要もなかったってことでしょう。


さてさて…主役の天照神ですけれど…

岩戸の前で繰り広げられる新しいお神さんが生まれるのを待つ祭りを

覗き見した結果、籠城中の穴倉から引き出されてしまいました。

岩戸という穴倉…つまりは母親の胎内に戻って、生まれなおした

…つまりは転生した訳ですから名前は同じでも引きこもる前後で

違うお神さんになってるってことも理解していただければ^^

記紀をよくよく読むと微妙に性格が違う天照神に気付くことでしょうww

ついでに記紀では割愛されてますけど、ウズメちゃんから生まれた新しいお神さんに

「天照」の名を与えたのか、元の天照神が「天照」として転生したのかって気になりませんか?

selaぴょん的には祭りの途中で出てきちゃったんだから

自分に所縁のない神を新しい「天照」にするのは許せなかったってことと解釈してますw


まぁ~岩戸開きのお話は暗に古代の輪廻転生論だの

いろんな意味合いを多分に含んでますから

その辺はいずれまたお話する機会もあるでしょうってことで

この辺でお茶を濁すのであったった~☆

無の書もやっと瞑想編の最終回です。長かった~><

とはいえ、全体から見れば1/10も終わってない訳だから…

先はもっともっと長いってことだよね><…うぅ~…頑張る><


まずは言葉の定義から^^

魔術的変容(メタモルフォース)とは自分の意志で自分の心を再構築すること。

わかりにくいよねぇ~w

例えば、心の問題で何かを追い求めるならば

その反対のことも理解しなければいけないってこと。

善とは何かを知るためには悪とは何ぞやってことを理解しなくてはいけない。

楽しさを知るためにその反対の苦しみや悲しみを理解しなければいけない。

人の心は常に相反する2つの事象の間で揺れ動くものなので。


ですが!ここからが本題w

魔術的に心を再構築するのに実はそんな事関係ないってお話です。

苦しかろうが、楽しかろうが、善いことをしてようが悪行に走ろうが

魔術的には何の意味も持たないのです。

必要な時に、必要な状態に心を保つ。それだけです。

…が、人の心は得てして弱いのですよ><

そうなるためにこれまで面倒な瞑想を続けてきた訳なんです。

果たしてどれだけの方がそこまで到達できているかは謎ですが。


言葉をかえましょう。

変わるってことは不変の状態を維持できなければ起こらないってことで。

その不変の状態を作り出し維持するための方法は瞑想しかないってことは

理解してもらえたんじゃないかなぁと思うのです。

何度も言いますけど、人の心は弱いので鍛えてあげないとダメなのです。

↑の二元性を持ち出すなら、自分の心の弱さを理解してこそ

不動なまでの心の強さを手に入れられるってことになりますかねぇ~

これまでの瞑想をちゃんと実践した方なら如何に心は惑わされやすいか

体験として理解できたと思うのでこれ以上くどいことは言いませんけれど^^

変容のためには絶え間ない瞑想だけではなく次のことも必要です。

哄笑と非執着(非無関心)だと無の書は言います。


無の書では「哄笑とは宇宙が宇宙自身をからかう唯一の行為」と表現してますけどね。

楽しいことだけではなく、嫌なこと、苦しいことさえも笑い飛ばす。

取るに足りないことや無意味なことにさえ笑いを見つける努力をする。

全てのことを笑い飛ばせるようになるまで意識的に続けることが必要です。

どんな些細なことさえも笑い飛ばせる器量を身に着けたとき

清濁併せ呑む度量が生まれ、それが心の強さに結びつくのです。

瞑想の中で自分を悩ませるように湧いてくる

胸糞悪くなるような思考を笑い飛ばせるようになったら

1つ目の変容ができたということになるわけです^^


で、二つ目。

魔術師は成果を期待してはいけないって言うのですよ。

実験は必ずしも成功するわけではないし、結果が期待通りになるとは限りません。

引き寄せの法則がうまくできない人のお話に通じますけど

成功した経験のない人は成功が如何なるものかを知らないがゆえに

成功を引き寄せられないのに似たお話になる訳です。

だから、魔術師を目指す人は何かに執着してはいけない。

特に成功とか、成果とかね。

ただ、執着には2面性があるのです。肯定的なものと否定的なものが。

例えば「お金持ちになりたい」という執着は現実にお金がないために

引き起こされることが多々あります。

お金持ちになるということとお金がないという現実は一つの事象の裏表なのです。

「お金持ちになりたい」という執着はその反面である「お金がない(貧乏)」に

執着することでもあるのです。

だから引き寄せの法則も含めて過剰な執着は反面を強調しかねないので注意が必要なのです。

だからと言って、執着の対象に興味を失うのはまた別なのです。

反面が協調されるのもまた魔術的現実なのですから。

2つ目の課題は難しいですけどね~


そこで3つ目の訓練になる訳です。

どれだけ無害に見えても「習慣」は魔術師には邪魔なのです。

まずは無害に思える習慣を失くす努力をしましょう。

食事の前には○○をするとか、仕事中、何時にはお茶しなくちゃダメとか

無くても苦にならないところから初めてみるのをお勧めします。

次に無害な新しい習慣を付けてみるとかね。

ただし、精神的、感情的、自己中心的に意味のないことを選ぶこと。

それと失敗する可能性のない単純なことを選ぶことです。

「失敗」の記憶は根深く残るのでこの先様々な新しいことを始めるときに

「どうせまた失敗する」という感情が先に立って何もできない子になっちゃうからです。

裏表一体で存在する肯定的な事象と否定的な事象では

否定的な事象のほうが現実化しやすいってことなんですよ^^;

ま、ちっちゃな事でも成功(肯定的)事例が積み重なれば

失敗(否定的)事象は影が薄くなるので成功の積み重ねは大事なんですよねぇ~

「自分はできる(子)」って信じることがとっても大事なんですよ^^


それと、習慣は「~しなければらなない」に繋がり

それは人の自由を奪うのです。

人ではなく機械化しちゃうってことになっちゃうんですよねぇ~^^;

だから習慣にしない。気が向いたときに気が向いたことをする。

自分の意志で選択してそれをすることが大事なんです。


さてさて、今日のお話はどれだけの方が理解できたかは別として

ここまでのことができるように努力して下さいなのでした^^

次回からやっと魔術らしい話になるじょ~なのだったった☆



またまたギーターです^^;

一気にお話進めないとやる気が失せそうなあたりなのでw

本篇では2章26~38節のあたりってことで^^

前回、不変不滅の魂にとって肉体は着替え可能な衣服のようなものというお話をさせて頂きました。

今回はその延長のお話なんですが…

クリシュナ君のするお話が現代人の我々にはとてつもなく過激な内容と

なってる部分でもあるので一気に終わらせたいのですよw

先に言っておきます!

selaぴょんの気性はある意味「戦士」ですが戦争容認派ではありません^^

ってことで本題に戻すことにします!


生まれたものは必ず死ぬ。それは誰もが理解できることだと思います。

ではその逆は真なのか?否か?

クリシュナ君は死んだものは必ず生まれる。と言っています。

いろいろな形でこの手のお話は巷に溢れ返っているのですが

それを見聞きしてもそのことを理解できる人は少ないのです。

だからこそ、煮ようが焼こうが切り刻もうが魂が壊れないということを信じられない訳です。

このことが五感で感じられることならばまた違ったのかもしれませんが

あいにく魂なるものは五感では感知できません。

理屈としてそういうものがあるんだろうな~って程度の方がほとんどでしょう。

だからこそ、ギーターは難しいお話になってしまう。

というか~、必要があって手にするか、たまたまそう仕向けられるかでもしないと

読むことってないでしょうからねぇ~ww

ギーターを学べるところまで精神的に成長した人しか関心も持たないだろうしw

…脱線しすぎですね^^;


クリシュナ君の説法に戻ることにいたしましょうw

生死という人知ではどうにもできないことに嘆き慌てふためくのではなく

今、自分の置かれている状況に対して義務を果たすことが重要だといいます。

クリシュナ君は少しだけ具体例を出してくれてます。

現代人の我々は、皇室に属さない限り「身分制度」の影響を受けないので

古の時代の身分制度による義務なんて理解できないでしょうが

書かれた時代を踏まえて理解してくれればと^^;


生まれによって決まる貴賤、その身分によって就ける職業や結婚できる相手が決まる。

そして様々な制限と義務が当たり前だった時代。

ギーターが書かれたのはそんな時代でした。

そして悩み多きアルジェナ君は特権階級である王侯武士階級の生まれです。

武士階級の責務は文字通り「戦う」こと。

それがその階級の義務であり、正義であった訳です。

戦が起こればそれに参加するのは当然の義務であり

当時の身分制度、宗教観から言ってもそれは「善」だったのです。

なのでクリシュナ君はアルジェナ君に言うのです。

武人として参戦できるのは幸せなことである。…と。

逆に参戦しないのは「義務不履行の罪」を犯し、武人としての名誉も失うと。

更には味方には臆病者と軽蔑され、敵は蔑みの言葉を投げるだろうと。

歴史に刻まれる汚名と恥辱の数々にアルジェナ君は耐えられないだろうって

クリシュナ君はある意味煽ってるんですよねw

名声、名誉といったものに重きを置く方ならこの辺のことは

理解できるのではないでしょうか。たぶんきっと^^;

ここまでは理解できる方も多いと思われます。

実際、理解できる言葉が並んでますからね^^

ですが、クリシュナ君がこの後続ける言葉に共感できる現代人は少ないでしょうね。

だってねぇ…アルジェナ君が戦死するなら天国へ行き

勝って生き残れば地上での栄華を謳歌できるって焚き付けてますし

二律背反の命題で悩み苦しんでないで義務としてなせ。

そうすれば罪にはならないとまで言ってのけたクリシュナ君の真意を

理解するのは難しいでしょうから^^;


理解しやすいように言葉を変えましょう。

現代人は「生まれ」による身分制度からは解放されましたが

「実力主義」という名の新たな身分制度に囚われてしまいました。

職業選択の自由、結婚の自由を手にしたと思い込んでいますけれど

実際そんなものはないんですよ。

職業も結婚相手も確かに自分で「選択」できていると反論する方も多いでしょう。

でも実際には「実力主義」による新たな身分制度にがんじがらめにされているのです。

ある職業に就きたければ○○という資格が必要、そのためには偏差値がどのくらいで…とか

結婚相手に対する条件としても高学歴、高収入、容姿端麗、親が資産家だとか

好条件に恵まれている人は好きなように選択できるかもしれませんが

そうじゃない方にとってはその選択肢すらない場合が多い。

経験上、あるいは報道番組での統計などからその辺のことは認めたくなくても

情報としては知っている事実でしょう。

そう、「格差」という名の新たな身分制度が確立しちゃってるんですから。

そんな中で、今置かれて状況に不満を持ってる方も多いと思います。

実力のある方なら「そんなの自分の実力の無さを恨め」で終わるんでしょうが

当事者にしてみれば生活もあるし、そう簡単に納得もできないでしょうし

「あの時もっと頑張ってたら」と後悔したところで遅いのです。

…人は常に後悔しながら生きる生き物なので無駄だと知ってても後悔したがるんですよねぇ~…

ならばどうすればいいのか。

現状を嘆くより、今置かれた状況での「最善」を尽くせ!

ってことになる訳です。


ギーターの書かれた時代は現代以上にがんじがらめな時代でした。

そして現代ほど人の命は価値あるものではなかったのです。

だから、当時の身分制度の中で理解ができるであろう表現をクリシュナ君はしたにすぎません。

「善」も時代によって様々に変化します。

江戸時代くらいまでは日本でも人の命は存外軽いものでした。

暗殺を含め、「大義」さえあれば簡単に人の命を奪えた時代です。

現代人には受け入れがたい価値観ですけどね。

時代、経験、立ち位置によってその人にとっての「善」は簡単に変わってしまう。

ならばそのことが「善」か「悪」かで悩んでいる間があるのなら

その時点での「最善」を尽くすことに尽力しなさいとクリシュナ君は言いたかっただけなのです。

付記するなら、いわゆる天国に行くのか現世での栄華を謳歌するのかというお話は

アルジェナ君の立場に対してのお話であって立場が違えばまた違ったお話になるってことです。

現代人にとって天国だの言ってもピンとこないでしょうし^^;

まぁ、来世は良い身分に生まれるよって程度のお話になるだけかもしれませんし

頑張ったところで何も得られずに終わってしまうかもしれないのですから。


それでも不変不滅な魂にとってそれは写真の一コマのようなもので

意味があるかないかはそれを行う当人が決めればいいのです。

意味があると信じるなら最善を尽くせばいいだけのこと

ないと思うのであれば後悔だけの人生を送り続ければいいだけのことです。

後は、それを自分が納得し良しとできるかどうかってことで…

悩みはまたまたスタートに戻る訳ですねw

どこかで負のスパイラルを断ち切らない限り、永遠にこの悩みからは解放されない。

ってことで、来世の問題として先送りするか、今世の問題として真摯に向き合うか。

究極はその選択になるのかなぁ~?


少しは理解してもらえたでしょうか。

まだまだ説明不足な感は残るもののこの辺でお茶を濁して

次回に持ち越すことにするのであったった^^;