今から4半世紀ほど前に、私(ミルキーステーション駅長)は伊豆大島の大島支庁に2年間赴任していました。滞在2年目の11月、大島で大噴火があり全島民が本土に避難して参りました。
大噴火の1週間前は、外輪山(大島三原山はカルデラ火山で内輪山と外輪山でできている。)の外側まで噴火するとは誰も考えず、外輪山の見晴らし台の近辺から内輪山の火口から吹き出す焔から始まり、ついで流れ出した溶岩流を見る観光客で賑わい、『三原銀座』の異名をとるほどでした。暗闇の中で輝く赤い溶岩流が一筋、また一筋と、私も監視員として外輪山の山頂付近に待機しながら、写真を幾枚撮ったことでしょう。

私は、学生時代から『童話』を書きはじめていたのですが、公務員となってからも仕事とお酒のあい間を縫っては、ささやかな作品を書いては公募に『投稿』したりして、『佳作』や『奨励賞』などを頂き、児童文学への 夢を捨てきれずにいました。
せっかくの大島への赴任です。大島を主題とした童話をぜひとも書きたい、最初に書くならやはり『御神火』だと思い書いたのが『どんどこせんねんたったあ』でした。
と、そこまでは標題の『霊感、山勘、第六感、そして予知』とは特に関係ありませんが、この作品をS61.11.15に書きあげた、まさにその日から三原山の空が紅く染まり噴火が始まったのです。
1週間の『三原銀座』の賑わいの後、11.23(日付は確認してません。)の大噴火になり、全島民の本土への避難となったのです。
避難に至るまでの経験や思いはさて置いて、次は避難先でのお話です。
大島元町幼稚園の橋本先生にこの『どんどこせんねんたったあ』(私は原稿をもって避難してました。)の原稿のコピーをお渡しました。 噴火で避難している方に、童話とはいえ『噴火』の話をお見せするのは勇気がいりました。
しかし、実際の噴火の前に書いたものであるし、町の教育委員会の方のすすめもあってお見せしたところ、大変喜んでいただけ、何ヶ月後に大島に帰還した時に、まさか園児達が『どんどこせんねんたったあ』を演じてくれるとは思いもよりませんでした。
しかも、園児の描いた招待状をもって、一番前の特等席で、『劇』になった『どんどこせんねんたったあ』を観るとは……。