「座敷わらし」

（1）

タクシーの急ブレーキ音が耳をツンざいた。

「バカヤローどこ見てホッついてる！」

「かーちゃん！」

母と二人の子供……。

「かーちゃんぼんやりしていてごめんね。」

タクシーにぶつかりそうになった母は、子供たちに謝った。

土曜日の朝、突然、母が2人の子供に上野公園へ行こうと言った。

「まだ、桜が咲き残っているから……。」と。

「母ちゃん、今日は野球の練習が……。」

兄の亀吉は言いかけたものの、母がいつもと違うのを敏感に感じていた。

昨日の深夜遅く、酔って帰って来た父と母が激しく言い争っていた。その声で亀吉は目を覚ました。そして、布団を頭から被るとダンゴムシのように丸まって朝を迎えた。

「母ちゃん、桜よりも……。」

亀吉の呟きは妹のロコの言葉に消されてしまった。

「お弁当は持って行かないの？」

「今日は外でお食事しましょう！」

「わぁーい、やったあ！」と妹。

父はまだ起きて来ない。

「キリンさんがこんにちはしているよ！」

妹のロコは久しぶりの動物園にすっかり満足していた。

「お兄ちゃん、どーしたの？」

ソフトクリームを頬張る妹のロコと、不味そうに食べる兄の亀吉……。

「なんでもないさ……。」

「たのしかないの？」

「楽しいさ……。」

「あっシロクマだ。」

「北極グマだ。」

母グマと二匹の子グマが池で泳いでいた。

「なんだか、うちと同じだね。」

妹のロコが、父親が居ないことを言ったのか、

二匹の子グマは母グマにじゃれついていた。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん！猿山へ行こうよ！」

「よおし！」

昨夜のこと、あれはきっと夢だったに違いない。亀吉は元気を奮い起こして、妹のロコを追いかけた。

「バカヤロー！」

タクシーの運転手に怒鳴られて母子三人が向かったのは、母の故郷の信州だった。

上野発の夜行列車で、朝方に着く予定の列車だった。

（2）

翌朝、山の端から薄ら明るく照らし出された田んぼの畦道を、幼い寝ぼけ眼の兄妹と憔悴し切った母を、母の兄と兄嫁が出迎えた。

「よう来たずら……。」

今は兄の代となっている母の故郷……。

「ごめんなさい。突然、すみません。」

妹のロコは、緊張して母の背に隠れていた。

ほとんど着の身着のままだったから、旅の荷を解く必要もなかった。

朝方、誰が聞き知ったのか、珍しそうに都会から来た亀吉とロコを、村の子どもたちが入れ代わり覗きに来ていた。

「わんだれも遊んでこいや……。」

伯母に言われて亀吉兄妹は、遊びに出ていった。

（3）

奥座敷に激しい雨が降っていたように感じて、亀吉は目が覚めた。

柱時計が2つなった。夜中の2時らしい……。

耳鳴りがするぐらいの静けさに包まれた。

襖越しの奥座敷から何かの気配がした。

ついで

「カラコロカラコロ糸車

カラコロカラコロ銀の玉

カラコロカラコロとっぴんしゃ」

小さな女の子の声のようでもある。

亀吉は怖くなって「母ちゃん……。」と言おうとしたのだが、隣でねむっている妹にバカにされそうだったから、じっと耐えていた。

奥座敷の襖がするすると開いた。

「カメキチ、カメキチ……。カラコロ、カラコロ……。」と誰かが亀吉を呼んでいる。

亀吉が奥座敷を見ると、開いた襖の間から、白い子供の手がおいでおいでをしている。

亀吉はそっと寝床を抜け出して、恐る恐る奥座敷へ入っていった。

暗いはずの奥座敷にそこだけがぼんやりと明るくなったところで見たのは、亀吉と丁度同じぐらいの年格好の兄妹だった。

「ワシらは『座敷わらし』だ……。」

兄の方は絣の着物、おかっぱ頭の妹は、赤いちゃんちゃんこを着ていた。

彼らはこの家の守り神だという。

「ワンダレ、この家の旦那の甥っ子姪っ子だべ……。」

亀吉は言葉が出て来なかった。

「ワンダレ、可愛そうだと妹がいうから。」

『座敷わらし』の妹の方が歌うように口ずさんでいた。

「カラコロカラコロ糸車……。」

座敷わらしの妹が銀色の玉を出して言った。

「これくれる（あげる）もって行きな！」

「カラコロカラコロ銀の玉……。」

座敷わらしの兄妹から亀吉の手に渡された銀色に輝く玉、虹色に輝くお月さまのようだった。

「カメキチ、もし、カメキチが、本当に本当に願うんだったら、オラがかなえてやる。」

「とっぴんしゃ……。」

おかっぱ頭の妹が言った。

「ただし、オラたちのこと人に言うでないゾ……。」

「また、来いや！」

朝、あれは本当にあったことなのだろう……か？

母はすでに床をはなれていた。隣の妹を見ると昨日の田舎の子らと遊んだ夢を見ているらしい。寝言を言っている。

「ダメだってばあ！生水飲んだらダメだってばあ！」

亀吉は、銀色の玉を握っていた。

あれは夢ではなかったのか？

今、亀吉が一番の願いは、父と母が仲直りして東京に戻ることだった。

亀吉は銀の玉をしっかりと握りなおすと、

「父ちゃんが僕たちを迎えに来てくれますように……。」

（4）

その日、亀吉の心の中に、ふっと浮かんだ絵……。父が伯父の家の玄関口に立った姿だった。

（ああ、父ちゃんが迎えに来てくれたんだ……。）

亀吉の目から大粒の涙がほとばしった。

「父ちゃん……。」

叫びそうになったら、父ちゃんの後ろに何やら黒い影があった。

亀吉は、ドキリとして、その影の正体を見ようとした。しかし、影は霧が晴れるように雲散霧消してしまった。

（あの黒い影は一体なんだったんだろう……？）

お願いして、イメージして、期待して、その日の夕方、父がやってきたのだ。

「父ちゃん……。」

亀吉が心の中に描いた通り、黒い影もやってきた。

「今回は大変な迷惑をかけて申し訳なかった。」

父が義兄に頭を下げていた。

黒い影は、黙ったまま父に従っていた。何だか大人たちには黒い影が見えていないようだった。

「義姉さんにもご心配おかけしてすみません。」

家にいる時のワンマンな父とはうってかわって、後で笑い話になったのだけれど『借りてきた猫』のようだった。

こんなわけで、母と兄妹二人の家出はあっけなく終わった。

あっけなく終わって良かった。

亀吉は泣いた。

（5）

それから半世紀が経った。

久しぶりに妹のロコから電話が入った。亀吉は丁度あの時の『座敷わらし』を思い浮かべていたから、

「ロコさあ、『座敷わらし』って覚えているかい？」

「兄ちゃんボケたんか？」

「ほら、母ちゃんと3人で家出して、父ちゃんが僕たちを迎えにきたろう。覚えていないか。」

「覚えているよ。父ちゃん、一人で来れないもんだから友だちを連れて来たよね……。」

「あの時のことを思い出したら、涙が出てきてしまったんだ。」

「それと『座敷わらし』となんの関係があるの……？」

「そうそうあの時の銀の玉は……。」

そう言いかけて亀吉は黙ってしまった。

これは『座敷わらし』との密かな約束だったのだ。

電話が終わってから、

「歳をとったのかな……。」

亀吉は思った。しかし、本当に歳をとってしまったら、「懐かしい」などという悠長な感傷は無くなってしまう、そんな気がしてならない。心の涙があるうちは、若さの片鱗がある証左なのだと、祖父江亀吉は思った。