反面倒見主義:本人の自覚の重要性 | 雑学大典

反面倒見主義:本人の自覚の重要性

塾の広告には「面倒見主義」なんていう文句が踊っていたりしますが、それで良いのでしょうか。教育の目的が「技能を身に付けさせること」にあるのなら、何でも面倒見て、お膳立てして……というのは良くないのではないかと思います。生徒を頼らせてしまい、自分で自分のために勉強するという意識が育たず、他人任せのヤル気のない勉強になってしまいますし、勉強内容の面でも生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまうでしょう。上位の成績をとる「できる子」というのは、けっして面倒を見てもらったおかげでできるようになるのではないのです。

「生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまう」とはどういうことか、もう少し詳しく考えてみましょう。これは特に数学、算数において見られる傾向なのですが、子供の中に、奇妙な間違い方をする子がいるのです。たとえば小学生が「45個のあめ玉を兄弟で分けます。兄と弟の個数の比が4:5になるように分けると、弟は何個のあめ玉をもらうことになりますか?」という問いを解く場合。以下のような解答を書く子がいます。

 4 + 5 = 9
 45 x 9 = 405
 405 / 5 = 81
 答え:81個

あるいは、こんな答えもあります。

 45 / 5 = 9
 9 x 4 = 36
 答え:36個

正解は25個で、二人とも間違いです。では、この子達はなぜ間違えたのでしょうか。ヒントは模範解答として与えられる、以下の式です。

 4 + 5 = 9
 45 / 9 = 5
 5 x 5 = 25
 答え:25個

さっきの二人は、実はこの模範解答を必死に暗記しようとした子達なのです。一人目の子は「比の数字を足し合わせる」というのは覚えていましたが、その結果出た「9」という数字であめ玉の個数を、どうするんだっけ、かけ算かな? と思いだし間違えて、失敗してしまったのです。後者の子は「先に割って、あとでかけ算」という点は覚えていましたが、その前に「比の数字を足し合わせる」のを忘れて、そのへんにあった数字を適当に当てはめてしまいました。
こんな小学生の様子を見ると「この子はどうしてこんなに簡単な問題ができないのだろう、考えれば分かりそうなものなのに」と思うかも知れませんが、何のことはない。この子達は「この世のどこかに模範解答というものがあり、それを正確になぞるのが勉強だ」という思い込みを植え付けられてしまっているのです。どこかで一度こうなってしまうと、その後の勉強はすべて「模範解答の暗記」になってしまいます。ひとつひとつの出題形式について解法を暗記していたら、小学校の算数だけでも数え切れないほどのバリエーションがありますから、小学生の頭は簡単にパンクします。あの問題とこの問題の解法を混同し、何度も何度も間違い、それによって自信を失い、ますます「自分の考えは間違っており、この世のどこかに正しい解答はある。自分はそれを暗記し、正確になぞらねばならない」と信じ込みます。悪循環で、算数のできない、ついでに自信もない、マニュアル思考人間、いっちょうあがり、です。
中学高校と進めば、あるいは成績上位の方に目をやれば、ここまでひどい例は少なくなります。しかし、ある賢い方法を実行すれば勉強ができる、と信じているタイプの子は、案外好成績の子の中にもいます。たとえば以前、病弱で高校を中退したが大検を取って東京大学を受験し、一回落ちた。今年は合格を勝ち取りたい、という浪人生の相談を受けたことがありましたが、この子は英語の読解法などに関して参考書の進める方法をそのまま実行しており、山のような参考書が書棚をひとつ埋めていました。そのくせ、ひとつの問題集を最後までやり遂げたこともない。優れたマニュアルを探すことには熱心だけれど、自分の選んだ道を最後まで信じて走りきる、ということができないのです。しかし、このような「正確にマニュアルをなぞる」タイプの思考法では、予想外の出題や曖昧な設問に対応できない。そして、東大文系の問題というのは極めて曖昧な出題の仕方をするのです。必要なのは知識ではなく、問題文から何を答えるべきかを読み取る「センス」です。センスは理屈ではなかなか育たない。自分で感覚を全開にして設問を読み、出題者の意図を感じ取らねばならないのです。

先日、観世流宗家・観世清和氏のお話をうかがう機会に恵まれました。観世流というのは、能楽の最大流派です。この観世清和氏の仰るところでは、大人に対する能の稽古は、決して手取り足取りはやらないと言います。ただ、弟子の舞い方が下手な部分があると「おい見とけ」と言って師匠が舞ってみせる。そして弟子に一言「分かったな?」と言うそうです。一見非合理的にも見える。しかし、そこで弟子は必死に己の技術を磨くガッツと、理屈ではなく自分で必死に研究した結果としての技術を体得することができるのだと言います。これには耳を傾けるに足るものがあるように思います。清和氏は、お父上からこの「分かったな?」式教育を施され、どうしても分からないところはこっそりお父上の書斎に忍び込んで、分からないようにお父上の舞を収めたビデオテープを盗み出し、稽古せねばならない部分を必死で繰り返し見て、衣服のちょっとした歪み方からようやく父と自分の体使いの違いに気付いたと言います。果たして自分の教え子が、この観世氏と同じだけの努力をして私の数学解答法を盗んでいるかどうか。とてもそこまでの気迫・気概はないでしょう。つまり多くの子達は、面倒見よろしく何でも与えてもらうことに慣れ、「勉強しよう!」という進取の精神がまったく欠落してしまっているのです。

教育は第一に本人の自覚を求めることでなければならない、と思う次第です。

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※もっとも、これは本人が精神的に自立し、自分で勉強に取り組めることが前提なので、精神面に問題がある子には、この方法がすぐに通用するとは限りません。