如己堂と 永井隆記念館 | 長崎 川谷歯科の院長ブログ

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小江原消防署 斜め前にある 歯科医院です。 

次に 近くの 如己堂へ・・・

 

 

塀の上の 猫ちゃんが お出迎え♪ 

 

 

ほどなくして 如己堂 到着・・・

 

 

ここは永井隆博士の病室兼書斎。 

 

原爆で無一文となった浦上の人々が 

博士のために建てた・・・

 

 

 

永井博士は“己の如く隣人を愛せよ”と

いう意味から“如己堂(にょこどう)”

と名付け 2人の子どもと共に暮らした。

 

畳 2枚しか ない 正方形の 狭い部屋。

 

敗戦直前の 昭和20年8月9日 小倉上空が

天候不良の為 それではと 第2目標の長崎へ・・・

 

ただ その日、雲が 覆っていたか いな

かっただけの事だけで 小倉から長崎へ

変更・・・?   

 

B29は 雲の切れ間に 三菱長崎兵器製作所

発見し 原子爆弾投下・・・

 

11時2分、松山町上空500mで 天を

裂くような 熾烈な閃光を伴って爆発・・・

 

当時 24万人の 長崎市民のうち

死者   73884人

負傷者    74909人 

罹災者  120820人 

 

 

 

 

 

最愛の妻を 原爆で 失い 父と幼い子供

2人だけの 3人家族・・・

 

8月8日の朝 妻は いつものように

にこにこ笑いながら 永井博士の 出勤

を 見送った・・・

 

少し歩いてから 弁当を忘れた事に

気づき 家へ 引き返すと、玄関で

泣き伏している妻を見た・・・

 

(1945年 永井博士は 白血病で

 「余命3年」と 診断されていた)

 

それが 妻との最後の別れだった・・・

 

翌9日からは 救護に 忙しく ただ一面の

焼灰の自宅に 戻ったのは 3日後・・・

 

台所で 妻のものと 思われる 黒い塊を。

そばに 妻が身に着けていた 十字架の

ついたロザリオの鎖が あった・・・

        (ロザリオの鎖より) 

 

 

 

白血病で 寝たきりの 永井博士・・・

 

 

永井博士は なんと 島根県出身・・・

 

松江中高を 経て 1928年 長崎医大

入学・・・

 

2年前に 車中泊しながら 訪れた島根県

だったので 身近に感じる。 

 

1948年には あの ヘレン・ケラーさんが

如己堂を 訪れていたのには ビックリ・・・

 

 

永井博士は 戦争は 愚かな事・・・

戦争に 勝ちも負けもないと 訴えながら、

 

 

なんと 43歳という若さで 亡くなられて

いた・・・

 

あの 放射能や 原子爆弾とは ゆかりのない

自然豊かな 島根県から 医者の父の影響も

あって 医者になる為に 長崎へ・・・

 

当時 不治の病と呼ばれていた 結核の治療

に エックス線を使い尽力・・・

 

しかしながら 激務の上 戦時中の物資

不足で フイルムも無く 直接透視を続け

大量の放射線を 浴び続けた結果 白血病

の苦しみを 負いながら さらに被爆という

二重の災難の結果 43歳で・・・

 

昔 この近くに 住んでいたのに 如己堂は

一度も 訪れた事は なかった・・・

 

少しだけ 自分を見つめる 余裕が出来た

老後の 今日この頃になって やっと 永井

博士と 向き合う事が 出来た・・・ 

 

また 孫たちとも 来たいと 思いながら

もと来た道を・・・