加藤民吉のこと | 長崎 川谷歯科の院長ブログ

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小江原消防署 斜め前にある 歯科医院です。 

佐々皿山にて  陶工 加藤民吉が 修行をしたとの話であるが・・・

 

 

お世話になっている 佐世保市の 西芳寺の 廊下の壁に 加藤民吉の 年表が 貼ってあるのを 発見・・・

 

 

 

焼き物が 瀬戸物と 言われるほどの 愛知県での 焼き物の 発展は

実は 佐々皿山が ルーツ? 

 

 

当時 肥前、佐賀県(有田焼)や 長崎県(三川内焼)が 全国的に 焼き物の産地で 有名だった・・・

 

そこで なんとか 製法を 学びたいと 1804年(文化元年)瀨戸を 出発した 民吉。 

 

 

とは言っても 当時は 鍋島藩の有田焼など その製法など 外部に 漏らしては いけない厳しい時代。容易に 製法を 学ぶ事は 出来なかった・・・ 

 

 

なんで 仁左衛門さんに、弟子入りを 許されたのか?

 

佐々皿山でも 平戸藩御用窯の 監視下のもと、容易では 無かったはずなのに・・・

 

以前は 皿山に 次のような 立札が あったのを 見た事がある・・・

 

内容は 瀨戸から来た 陶工が 娘さんと 結婚して ここで 焼き物作りを

したいと 願い出た事を信じ、福本仁左衛門さんが それならと 製法を

伝えたという 内容だった・・・

 

しかし、弟子入りしたのち 約2年余りで 故郷 瀨戸に、妻を 残して去って行ったという 悲話が 綴ってあった・・・     

 

今は そういう内容の 立札は どこにも 無いのが 残念・・・(>_<)

 

 

 

仁左衛門さんの 二女だった?

 

きっと 父親 仁左衛門さんは それならと 喜んで 焼き物の製法を 教えてしまった?

 

 

 

この辺りに 登り窯があって 民吉も 焼き物作りに 勤しんだ 市の瀬窯。

 

 

 

そして 個人的だったのか 命を受けての 来訪だったのか、役目を 終え

故郷 瀨戸へ 戻る事に・・・

 

 

焼き物を 瀬戸物というほど 一大産業に発展した 愛知県の その後の

焼き物の歴史は 凄まじい・・・

 

民吉の たった 3年あまりの 修行が 後に スゴイ事に・・・ 

 

しかしながら 過去に そういう 悲しい出来事が あったなんて・・・(>_<)

 

皿山公園に行くと ちょっと センチに なってしまう 今日この頃である・・・