進行中の人生を、自分で区切って自分で名前をつけるのは変な感じだ。今が何合目かもわからないし。
でも、もし自分の人生を前編と後編に分けるとしたら、自分の体から別の人間が出る前/後と分けるのがわかりやすい気がする。
前の記事で書いた、ビッグイベントとはそのことです。かぶじょの第三回公演の直前に、私の体内に別の生命がうごめきだしたとのこと。
『菅原伝授手習鑑に関する考察』というタイトルで、梅王丸を主人公(ストーリーテラーは何もかもうまくいかない男性新入社員)にした舞台でした。
私は何の因果か小太郎の役を演じている最中で、このとき命を授かったことに何だかいろいろ考えさせられたし、今まで観ていた歌舞伎感も変わった気がします。
自分が子供目線で観ていたものが、親目線になったなどという単純なものではなく、「痛みの種類にはいろいろある」と考えるようになったというか。
産後半年くらいに、『菅原伝授手習鑑』を観た後の感想がそれを物語っているかもなのでよろしければご参考にしていただきたいです↓
これを読み返しても思うのは、やはり歌舞伎を観る醍醐味は、歌舞伎と自分とを繋げる糸口を発見したたときだ、ということ。
歌舞伎のあらすじだけ読むと、自分の子どもを上司の子どもの身代わりにするとか、娘が添いたい人と結婚できないなら自分の手で娘に手をかけるとか、ありえない、自分と関係ない、共感できないと思ってしまう物語も多いかもしれない。
でも、決して「そういう時代だったから」ではすまない、繊細な心の動きや物語がちゃんとある。だから残っているのです。
全てを現代に置き換えて考えることはできないし、共感することだけが歌舞伎の楽しみ方ではない。
でも、ちょっとだけ肩入れできるキャラクターを見つけると、見方が変わってくると思います。
そういうことを考えて、「ヒロインはいつも泣いている」を書きました。
最近我が家では、このタイトル大喜利が盛んに行われている。
最新作は「パパはいつもふざけている」(どんなときも家族を盛り上げようとするお父さんの悲哀を書いた一冊)
「ママはいつも間違えている」(昨日もクロネコヤマトをヤマネコクロトといったり、誤作動の多い母の失敗談をただただ列挙した一冊)
そして娘は
「ヒロインはいつもがんばっている」
という本を書くんだと意気込んでいる。
ぜひよみたい