歌舞伎NEXT「阿弖流為」 | 歌舞伎ライター 関亜弓「そば屋のカレー日記」

歌舞伎ライター 関亜弓「そば屋のカレー日記」

俳優、ダンサー、歌舞伎ライター関亜弓による大衆向日記です。

七月の新橋演舞場で

「歌舞伎とはかっこいいもので、かっこいいものが歌舞伎だ」

と改めて気づかせてくれたのが『阿弖流為』だった。


色んな方から、
劇団☆新感線と染五郎さんが新橋演舞場でコラボレーションしたことは画期的なことだったんだよと聞かされてきたので、今回13年ぶりとなる、歌舞伎NEXT『阿弖流為』としての上演は、それはそれは感慨深い人も多かったのではないだろうか。

別の作品で劇団新感線を初めて観たときに、音の圧を体で感じたのを覚えている。ライブハウスにいるような、体に刺さるタイプの高揚感。

今回の歌舞伎NEXT『阿弖流為』でも、同じようにうわぁー!と上昇し、止まらない高揚があったけれど、どこか「包まれてる感」があった。

 

理由の一つに両花道だったことがある。いつもは舞台と客席、花道からの舞台へ向かってのエネルギーだったのが、本花道と仮花道での掛け合いが、客席を通って交差し、とけていく。ちょうど交差点となる席で観ていたからか、掛け合いに包まれる幸福感といったらなかった(そしてどちらも見逃すまいと首を振りすぎた私)

そしてパーカッションやギターなど西洋の楽器と、和楽器とが見事にマッチしていて、「音楽による包まれた感」もあった。
記者発表で今回やるにあたってのキーワードの一つが「混ぜる」だと染五郎さんがおっしゃっていたけど、まさに音楽も、SE、生バンド、歌舞伎の音が心地よくまざっていた。
そのブレンドの要となったのは徹さんの附け打ちだったように思う。附けのおかげで、音が喧嘩しないし、音量でなく、柔らかく体に響いてくる。附け打ちは効果音という枠を超えた、歌舞伎のアイデンティティの一つだという証明でもあったし、音による包容力を生み出していた。

 

そして、なんか包まれる感じがする。と思ってしまう最大の理由は、この『阿弖流為』は皆がみんな、「守る」ことが行動原理だからだと思った。

阿弖流為も田村麻呂も立烏帽子も鈴鹿も阿毛斗も、熊子も()みんな愛する人や国を守るために必死に動いて走って闘っていた。その姿は、カッコつけたかっこよさではない。だから本当にカッコいい。

 先日観劇した大阪公演でも、回を重ね劇場がコンパクトになったことでお芝居がより緻密になり、立ち回りもより迫力を増していた。

立ち回りには種も仕掛けも表も裏もない。生身の身体と身体がぶつかりあって、勝ち負けがあって、生死がある。不思議なのは、歌舞伎役者は洋服を着ていても、スピード感が増しても、やっぱり美しい。無駄がないし重心がコントロールできるし、キめるべきところがわかっている気がする(ようにみえる)。


もう何に涙しているのかわからない自分がいた。


人はなぜかかっこよすぎるものを前にすると泣けるとわかった。


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阿弖流為のあとに、大阪の安養寺に行っておさんのお墓まいりへ。(写真はお寺の入口です)

コラムを書いたときはお電話だけだったので、実際に訪ねることができてよかった。
色々お礼を伝えられてよかった。


というわけで充実の遠征でした。

大阪、また近々来ます!(リアルに)