ポーランドの歴史 ① ピャスト朝の成立 | 世界史太郎のブログ

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ポーランドの歴史をみていきたいと思います。


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ポーランドは、ドイツやロシアといった大国や、銀行や農牧で有名なスイスと比べると少しマイナーな国ではあると思います。しかし、大変に親日の国民が多い国であり、治安の良さはヨーロッパ有数であり、美しい街並みや自然環境に恵まれており、観光にはもってこいの国だと思います。


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西スラヴ人の一派であるポーランド諸部族は8世紀はじめ頃は小規模だったのですが、後に連合して大規模になりました。10世紀初頭までに、後にポーランド国家を建設することになるポラン族(Polanie)とゴプラン族(Goplanie、ゴプワン族)は、現在のヴィエルコポルスカを居住地としていました(現在のポーランドの真ん中から少し西)。


ポラン族の「ポラン」「平野の人」を意味しているようです。つまり、「ポーランド」は平野の国という意味です。実際、国土のほとんどは広大な平野です。


966年、ポラン族の首長ミェシュコは、公の称号を神聖ローマ皇帝オットー1世から与えられました。


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ミェシュコはチェコ公ボレスラフ1世の娘ドブラヴァと結婚し、キリスト教(ローマ=カトリック)に改宗しました。「スラヴ民族」というと、真っ先に思い浮かべてしまうのはロシアです。そして、ロシアはロシア正教(東方正教会)ですから、スラヴ民族は全て東方正教会と思ってしまいがちです。しかし実際には、ポーランド人が含まれる西スラヴ族は、ローマ=カトリックが圧倒的な多数派なのですね。


このミェシュコ1世の公国は、ピャスト朝といいます。


992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぎました。この時代に確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致します。ボレスワフ1世はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ1世のデンマークと積極的に外交しました。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意しました。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものです。


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ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を全面的に受け入れたわけではないようです。神聖ローマ帝国領であったボヘミアへ進軍して1004年に自らボヘミア公となり、他にもマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得するなど、中欧に広大な新領土を確保しました。神聖ローマ帝国領であった土地にも積極的に外征し、領土を拡大したのです。


1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国となり、国境を確定しました。ポーランドが王国と認知されて間もなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世です。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げ、その後数年間は政治的な混乱の時代が続きました。


1038年、カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと遷都をしました。ヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置きました。


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