夏頃、
こちらのはるかさんの記事から刺激を受けて書き綴った、『お母さんシリーズ』笑
はるかさんのこちらの記事を拝見して、
はるかさんのおおきな温かい視点から
自分の中で、
『もしかして…?』
と色々繋がったのがはじまりでした。
(はるかさん、お二人目ご懐妊おめでとうございます♡♡)
はるかさんが書かれている、こちらの
もうひとりの『大きなお母さん』。
ふと、
大好きな吉本ばななさんが、
時々この
『大きなお母さん』
『大きな目』
について書かれていたな…と思い出したことから色々書き連ねたのですが。
実は私、
ずーっとずーっと
この『大きなお母さん』っていう感覚がよくわからなかったのです。
私にとって
自分の『お母さん』というものは
なんでも包み込んでくれる、
とか
見守ってくれる、
とは程遠い存在だった、笑。
絵本や名作アニメ劇場的なもので描かれる
『お母さん』は、
確かにそういう感じに見えて、
(『手袋を買いに』のキツネのお母さん、とか戦争映画の昭和の戦時中のお母さん、とか、笑)
『ああ、こんなお母さんなら私もいい子になれるのに…』
なんて子供心に考えたりして、笑。
でも、
自分の『お母さん』以外に
そういう『大きなお母さん』という感覚がよくわからなかった。
と思っていたのですが。
ふと、思い出したこと。
私は、
小さい頃から、
ずっとずっと
空を見上げて『かみさま』を探していました。
探していた、というか感じようとしていた。
月を眺めたり
空を見上げたり
自然の命を感じるとき。
そして
悲しいこと
寂しいこと
辛いことがあったとき。
いつからか
空を見上げて
『かみさま』と
心の中で呟くようになりました。
明確な会話ではなく
私はただ、心の中で
『かみさま』と呟く。
時には
『こんなに苦しいことが起こるのはなんでなのかみさま』
『どうしたらいいかわかりません、かみさま』
と呟いてみたり。
でももちろん何か頭の中にテレパシーとかで言葉が聴こえてくるとか
神の啓示が来た!!とかは全くなく





空は空で
月は月で
緑は緑で
海は海で
ただ、そこに在った
ひたすらそこに思う存分身を浸して
『…帰ろう。』と立ち上がる。
そんな時を過ごしていました。
医療に携わるようになってから
重症の患者さんの対応や
ここ一番という大事な場面で
心の中で祈るようになりました。
『かみさま、どうかうまくいきますように。
私が目一杯力を発揮して、患者さんの役に立てますように』
ヨガを始めてから、
必ずマットの上で
心の中で、もしくは口に出して
マントラを唱えるようになりました。
その時、心の中で
『かみさま、今から練習を始めます。
よろしくお願いします。』
と唱えるようになりました。
ずっとずっと
心の中に
雄大な自然の中にいた
私の『かみさま』。
それが、はるかさんやばななさんが言われている
『大きなお母さん』というものと同義語なのかもしれない。
もしそれならば
私は知っている。
見守ってくれる
ただジャッジもせずに
あるがまま在らせてくれる、大きな存在。
そして
私は
その『おおきなお母さん』
=(私が)『かみさま』と呼んでいたもの
を『肉体』の、私の母に
重ねて
甘えて
あの『おおきなお母さん』じゃない!!
と怒っていたのかな…
と思いました。
そうしたら
そりゃ『肉体』の母には
厳しいリクエストだわ…





と思った。
そして
『おおきなお母さん』
『かみさま』は
本当はいつでもそこにあるものだから
本当はいつでも繋がりを思い出せるものだから
『肉体』のお母さんが
『おおきなお母さん』と同じように愛してくれなくても
何も心配する必要はない
ちゃんと『おおきなお母さん』『かみさま』との繋がりを思い出せば
『肉体』のお母さんがどんなだって
ちゃんと私たちは
みんな愛されている
そしてその安心の中で
もう一度ちゃんと
『肉体』のお母さんがしてくれたことをみたら
『肉体』のお母さんが
その『個』のお母さんの精一杯で
愛してくれていたんじゃないか?
とはじめてわかる。
だから
『肉体』のお母さんに『完璧』を求めたり
『肉体』のお母さんに『ちゃんと愛されてなかった!!』っていうゲーム、
もう手放してもいいんじゃないかな、と思った。
もう
『肉体』のお母さんに、完璧を求めなくていい。
『肉体』のお母さんに、依存しなくていい。
おんなじ
1人の女性で
命をかけて
私の肉体を生み出してくれた。
それを、愛となぜ呼んではいけないのか。
もう、充分『愛』でいいじゃないか。
どうせみんな、
私たちは源から愛されているのだから。
そう思うのです♡
はるかさん、温かい愛の視点を本当にありがとうございます♡