こちらの続きです♡
やっと一番書きたかった事に辿り着きました







私が
ずっとずっと
『理想の母』に執着して
自分の母にそれを求めていた理由。
それが、ここ一年くらいでやっと言葉になってきました。
それは
ずっとずっと
自己肯定感とは
他人に育ててもらうもので
特に親に全てを受け入れてもらった経験がベースにあるもので
それがないから
私はこんなにも自分が嫌いだし
自己肯定感が低いし
それを埋める為にたくさんたくさん外側に取りに行こうとしていたんだ、ということ。
だから
自分の純粋な『好き』よりも
世間から見て
『素晴らしい』こと
『役に立つ』こと
『勝てそう』なこと
を自分で選んできた
(しかもそれを親のせいにする、めんどくさい女子

)



でも
もし
自己肯定感が
『他人』や『親』に育ててもらうものなら
『親』がダメならその子供の一生はダメってことになる。
私自身が
どこからか採用したその設定を握りしめていたから
私はもうベースがダメだからなんとかしなきゃ
になっていた。
でも、です。
びっくりする事に
ノート生活をはじめて一年もたつと
『私なんてダメ』
『私なんて』
ということが
驚くほど減りました。
今もまだまだ出てこないわけじゃないけど、
『あーまたやってるわ〜〜』とどこかで冷静に見ている自分がいる。
そして、
ヨガだけしていて、ノートを知らなかった頃は
『私なんてどうせ』
『私ってつまんない人間』
『だって親にちゃんと育ててもらってないから』
などなど出てきて
それを俯瞰して
ギャー恥ずかしい!!
見たくない!!
と瞬時に
『なかったことボックス』笑に廃棄していたのが
ノートでとことん自分と対話する習慣が出来てから
ゔ〜〜〜〜



















となりながらも
なかった事にはしない
ちゃんと見る
と決めているから
ゲロッゲロしながらも
とことん
『あー私って本当にダメ!!
あんな事もこんな事もできない!!
あの人はあんなで羨ましい!!
グエ〜〜ギャー!!』
って吐き出す、笑笑
さきこさんのご著書にはちゃんと明らめることの大事さが繰り返し書かれていますが♡
ちゃんとノートにならなくても
まとまらなくても
カッコ悪くても
とことん自分の感情や思考を吐き出して
ぐっちゃぐちゃのノートが増えていくうちに
『ちゃんと設定変更』しなくても
いつのまにか
自分をちゃんと『肯定』出来るようになってきました。
私は、『肯定』をとってもとってもハードル高いものに設定していただけだったのです。
『自己肯定』とは
自分のことが全て『肯定』=称賛出来ること。
『称賛』とは
社会的に認められること。
世界の全てから肯定されること。
その為には
世間基準で
世間で通用するものがたくさんなければならない。
そして
なぜ世間に認められたかったのか?
それは
ただただ、
自分の親が、
『世間に認められることを良しとしていたから』
私は、
親に認められる為に
世間基準を採用していたに過ぎませんでした。
『自己肯定感をあげる方法』
『自己肯定感を育てる子育て』
そんな本もたくさんたくさん読みましたが、笑
『自己肯定感』=親(他人/外側)に育ててもらうもの
だと
いつまでたっても
『私の自己肯定感、外側次第』
『私の自己肯定感、親次第』
な訳です。
言葉で書くと、
この辻褄の合わなさにギョッとしますが、笑笑
それでも、それを信じて疑わなかったんです。
『世間に認められる(=私の場合親に認められる)』ことが
自己肯定感をあげる唯一の方法でした。
でも。
ノートに全ての感情をぶつけてみると。
ダサい
かっこ悪い
つまんない
幼稚
と思って見たくないと思っていた自分の全てをノートに吐き出すうちに。
『私が、私の話をちゃんと聴いてくれている』
『私が、私自身を否定せずに受け入れてくれている』
そんな安心感に包まれるようになった。
ああ、結局
誰よりも一番自分自身が
自分をジャッジして
否定して
恥ずかしがって
ダメってしていただけなんだ。
自分の全てを受け入れる、とは
『うんうん、わかるよ〜〜』
『そんな時もあるよね』
『仕方ないよ〜〜』
『あなたは悪くないよ〜〜』
ってしてもらうことじゃない。
そんなの散々友達やパートナーがしてくれたりした。
でも
どんなに周りが受け入れても
慰めても
自分自身が、自分の設定で自分を否定する限りは
自己を肯定する力なんてつくわけない。
自己肯定、とは。
自己を、肯定すること。
誰が、『自己(私)』を『肯定』するのか?
私自身しか、いない。笑笑
私が私を肯定するために、他人の物差し使って一喜一憂するなんて、なんて辻褄が合わないんだろう。
そして、肯定する、とは。
ジャッジせずに、ただ聴くこと、なんだなあ。
そんな時にさきこさんのブログから響いた一言。
お母さん、今まで育ててくれてありがとう♡
もう、私達は、自分で自分のことを育てていける。
(どのブログか探せませんでした





なので同じように響くこちらを是非

)



そう。
私は、もう大人になった。
沢山の人の愛を受けて、すくすくと育ってきた。
なのになんで
いつまでたっても、
自己を肯定するのに『親』が必要なのか?
もう、お母さんへの『執着』という捻くれた愛情表現をし続けなくていい。
お母さんに『自己肯定感』を預けなくていい。
ちゃんと自分で自分を育てていけばいい。
そう感じた時
また心の底から一つ
お母さんへの感謝が湧き上がってきました。
お母さん
今まで全て引き受けてくれてありがとう。
それでもお母さんでいてくれてありがとう。
この肉体と人生という機会をくれてありがとう。
もう、自分で自分の面倒見れるようになったよ。
育んでくれて、ありがとう。
本当の『自立』ってこういうことなのかな、
と深く感じた一連の出来事でした。
長々お付き合いありがとうございました





(またどこかで番外編?書きます、笑)