毎日暑くなってきましたね~~~!!
昼に外に出ようものなら汗だくです、、、、
庭の紫陽花がますます元気です♡
さて、最近。
長男新生活開始→小学校入学、コロナ自粛からの学校再開
次男保育園転園
などなどに伴い、ばたばたしている我が家。
遠方の小学校に通っている長男の送り迎えや
3人の子供たちの毎日の持ち物の準備等々、
毎日やることが山積みで、
私のイライラ沸点が、めっちゃ低いです、、、、
宿題やったの???!!!
明日の準備は???!!!
制服出して!
体操服出して!!!
はやくご飯食べて!
こぼすな!!!!
寝る前にちゃんとトイレ行って!!!
(おねしょするから、、、笑)
学校のお便りちゃんと出して!!!
妹いじめんな!!!
お兄ちゃんに手を出すな!!!
はよお風呂入れ!!!
裸のままで遊ぶな!!!!
言うこときけ~~~~~!!!!!!!
、、、1日中怒っています、、、、、笑笑
それでは飽き足らず、
子供たちを寝かしつけたあとに、
ノートに書きなぐります、笑
いうこと聞けや!!!!!
何度も同じこといわすなや!!!!!
忘れ物ばっかするからいっとるんじゃ!!!!
返事しろや!!!!
誰が怒られるとおもっとるんじゃ!!!!
ぎい~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!
そして、ほっと一息ついて眠ります、笑。
ノートを書くと、ぐっすり眠れます、笑。
そしてふと、ずいぶん変わったな、私、とおかしくなりました。笑
この上のこと(もっともっと書きなぐっておりますが、笑)
以前なら、ぜったいノートにも書けなかった。
自分がダメな母親、と思うのが嫌で
自分は母に向いていない、と落ち込んで
イライラすぐキレる自分が嫌で
もっと優しい言い方できたら
もっと子供をちゃんと待ってやれるようになったら
もっと言葉を優しく
もっと家事とか縫物とか上手だったら
もっと子供にやさしかったら
もっと子供を最優先できたら
そんなことばっか頭で考えて、
まず頭に浮かんでいる
いうこと聞けや!!!!!
何度も同じこといわすなや!!!!!
忘れ物ばっかするからいっとるんじゃ!!!!
返事しろや!!!!
誰が怒られるとおもっとるんじゃ!!!!
ぎい~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!
自分勝手で
わがままで
短気で
器の狭い自分を彷彿とさせるこれらの言葉は、
絶対存在させてはならないものでした、笑。
しかも「小児科医のくせに、、、」とか余計なことまでくっつけて、笑
お母さんたちに偉そうにアドバイスするんだから、私はちゃんとできなきゃ!!!って、笑。
もういろいろ突っ込みどころ満載です、、、笑
そんな私だったから、
ノート書き始めのころは、
「は~~~イライラする。
でも、こんなことでイライラする私って母親失格、、、はああ。
子供にイライラするなんて最低。
もうちょっと○○な母親になりたい。」
とかきれいな言葉でまとめてみたり
「自分で子供産むって決めたんじゃん!
自分で決めたくせに文句言っちゃダメ!」
と謎の叱咤激励をしていました。
表面だけを、美しくしようとしていた。
表面だけを、整えようとしていた。
見てくれだけを、よくしようとしていた。
良い母親になりたかったのではなく、人から好い母親だと思われたいだけだった。
だから、『よい母親とは、○○である』という表現型だけにとらわれて
人に見られる時だけ子供にやさしい言葉遣いしてみたり
家の中だったらもっとがあ~~~って怒っていたことを人に見られているときはぐっと我慢したり、笑
逆に厳しい母親を演出してみたり、笑笑
そして、そんな自分にうすうす気づきながら、気づきたくなかった、笑。
でもでも、
大事なのは外見を整えることではない。
外側の評価なんて、何の助けにもならない。
それに気づいてから、
今は、もう、とにかくとにかくノートの中に、
自分の頭の中の暴言をそのまま出すこと、
を注意深くやっています、笑。
やっぱり今でも書きたくなります、↑みたいなきれいごと、笑。
いつの間にか、前のようなループにはまりそうなことも多々あります、笑。
でも、
『私は私をごまかさない』
そう決めたことと、
『ノートを問題解決のために書かない』
ようにしてから、ずいぶんと私の心は楽になりました。
黙ろう。
潜ろう。
ノートを書こう。
愛に辿り着くまで。
さきこさんのこの言葉、
さきこさンの在り方が大好きで大尊敬しているのですが、
私は長らくこの姿勢を勘違いしていました。
なんというか、
頭を使って愛に辿り着く為にノートを書いていた気がします。
器の小さい自分が嫌で、
理想の人間になれない自分が嫌で、
早く自分を変えたくて
早く理想の自分に近づきたくて、
そして、理想の自分とは、
暴言を吐くことも悪態をつくこともなく
常に穏やかで波風がない人間だったので
なんとかノートを書くことで、
『問題』を解決しようとしていました。
今の自分を否定して、変えようとしていました。
その為には、愛に辿り着かなくては!!
なんとか愛に辿り着く方程式はないものか!!
そんな風に、
ノートの上でさえ、
力技で現実を変えようとしていた。
委ねることが、できなかった。
自分をただ見ることさえ、できなかった。
でも、ある時から
自分の中の暴言も、
情けなさも、
ごまかしも、
打算も、
ダサい気持ちも、
おそるおそる全部全部、ノートに出すことで
その奥に隠れている、本当の自分を知ることができた。
自分の中に湧いてくる感情、って、
川に例えるなら嵐の後の濁流みたいだなあ、と思います。
普段は穏やかに流れて底まで見えている川でも
嵐(=何か外側の事象)が起こると、
わ~~~~~~っとまぜっかえされていろいろな泥が上がってくる。
(注:泥=汚いもの、ダメなもの、ではないですよ♡)
もちろん、嵐が去るのを待って、
その泥が再び沈殿するのを待って、
また穏やかな川の流れを取り戻すのも一つの方法だけど。
ノートに、全部全部感情を吐き出す、って
その泥をすべて川から掻き出していく、
という作業に似ているなあ、と感じます。
感情を全部見て、さらって、
ノートに吐き出すことで、
その奥に潜んでいる、自分の設定や、
本当の自分に出会う作業。
私は、ずっとずっと
事象が起こる
→感情が湧く(特に、ネガティブなものに対して)
→その感情=自分の考え、として
反応したり、
悩んだりしてきたけど、
わ~~~~~~~っと嵐で舞い上がってくる泥は、ただの表層で、
その泥の奥に、本当の川底が見える。
だから、
どんなに泥が汚く見えて、
掃除がめんどくさくて、
泥に触りたくなくて、
泥があるって見たくなくて、
放っておきたくなって
放っておいたとしても
それでもやっぱり泥は沈んでいくから、
表面上はきれいになる。
でも、泥を掃除したわけじゃないから、
やっぱりまた何かあると、舞い上がってくる。
ノートに感情(=表面の泥)を吐き出し、
それをまじまじと見てみると、
そもそも表面に舞い上がっていたことは大きな問題ではないことに気が付いたり、
何なら自分で好んでためていた泥だったと気づいたり、
自分がその泥を持つことのメリットが見えてきたり。
あと、
ちゃーんと全部出し切ると、
ぽっかり空いた空間に、余裕が生まれる。
ただそれだけで、イライラが減る。
あ、私単に疲れてただけだったな、とか。
子供に八つ当たりしてたな、とか。
本当に言いたかったことは、こうだったな、とか。
ちゃんと気づくことが出来る。
子供にごめんね、も言える余裕が生まれる。
そんな体験を繰り返すうちに、
自分が様々な感情を持つ、ということをジャッジしなくなって、
湧いてくるままに感じることを許すことができると、
自分として存在するのが、とてもとても楽になってきました。
子供に対してネガティブな感情を持つ=ダメな母親、っていうゲームも
そのネガティブな感情の奥にある、
本当の願いを丁寧に丁寧にみていくこと、
そして、『子育て』『母親』『親子』『愛する』をキラキラさせずに簡単にすることで、
「や~~~めた」ってすることができた。
そうしたら、子育てがずいぶん楽になりました。
私は今、いわゆる世間基準で見たら、
ずいぶん雑で、
いい加減で、
怒りっぽくて、
忍耐のない母親だと思います、笑。
もうちょっと、表現型も素敵な母だといいなあ、と、やっぱり思わなくもない。笑
それに、
「このまんまでいいの!ダメな母親でもいいの!」って、
二極にふれて八つ当たりして、
上がってきた泥を周囲に未処理のまままき散らすのは
美しくないし好みではない、と感じるので、そこもお稽古を続けていきたいと思います、笑。
でも、何より私が大事にしたいのは、
子供も、私も、対等の存在であることを忘れないこと。
対等の魂同士が、背景を重ねたくて、今一緒にいること、を忘れないこと。
それぞれの魂の学びを、邪魔しないこと。
子供たちが、子供たちであることを全うすることを全力で応援すること。
そのために、私がやるべきこと。
それは、
忘れ物をさせないようにすることでもなく
子供に勉強させることでもなく
私が、私の人生に集中すること。
私を、私がきちんと幸せにすること。
私を全うすること。
それだけだなあ、と思います。
だから、表面に上がってきた泥を、
私は一人で淡々と処理するのです。笑