こちらの続きです♡
サユラさんの新刊出版記念セミナーでの質問でも、損得についての質問がありました。

ノートを書くたびに、損得が出てきて辞めたいけど辞められない、みたいな内容でしたが…
(うろ覚えですみません笑い泣き

お二人の答えは

損得は私の世界にはありません♡と決めちゃうだけでいい♡

でした♡



損得が出てくるたびに、

自分はどうしたいんだっけ?
本当はどうしたいんだっけ?
損得で決めたくないんだよね?

その都度、また決め直していくラブ

そして、はるかさんがこちらのブログでも書かれていましたが、

お二人がセミナー中に言われていた回答、

全てが自分を知るための経験だ、と設定を変えると損得はどっちでもよくなる。

本当に、これに尽きるな〜〜と深く頷きました。

そして、はるかさんの印象的な一言。

悲しい気持ちに『損』という名前をつけなくていい。

これって本当に大事なことで、
そして割と気付かずやっていることだなぁ〜〜!!と思いました。

前回リブログさせていただいたさきこさんのこちらの記事

私は、この時まで、当たり前に、

孤独死=可哀想
自殺=ダメ
突然死=不幸

の設定で生きてきました。

でも、セミナーでのシェアと、その後のさきこさんのお話を聞いて、

死に方でその人の人生全てが可哀想と決めるのか?

死、という生の中のただ一点の形で、その人の人生全てを集約させるのか。

それは、やはり余りにも雑で失礼な在り方だと深く反省しました。

そして、つい混同しがちな感情たち。

ついすぐカテゴリー分けしたくなるけど、
上のさきこさんの記事にもはるかさんの言葉にも集約されていますが

寂しい=可哀想なのか?
無くなる=ダメなのか?

人が亡くなったら、もちろん
悲しくて、
悔しくて、
切なくて、
無力感が漂ったり、
涙が止まらなくなるけれど、

それは死=ダメなこと、とは別に

悲しくて、
悲しくて、
悔しくて、
切なくて、
無力感が漂ったり、
涙が止まらなくなるのは、

もっと一緒に居たかった
出会えて嬉しかった
一緒に過ごせて幸せだった
出会えて良かった

この気持ちがあるからで。

そして、人の死、という
ひとつの事象から、また私達は自分に出会っていく。

それを
悲しい、
悔しい、
切ない、
無力だ、
涙が止まらなくなる、

はダメだから、全てダメとしてしまうと

もっと一緒に居たかった
出会えて嬉しかった
一緒に過ごせて幸せだった
出会えて良かった

この、宝物のような気持ちも全部ダメになってしまう。

身を切るような痛みを感じるくらいなら、この嬉しい気持ちも最初からなかった方が良かった、と拗らせてしまう。

私は若い時に兄弟を亡くしたのですが、
ずーっとこうやって拗らせてきたなぁ…と思いました。

そして、

死=結果としてしまうと、
人生のプロセスを全て取りこぼす。
結果(しかも外側の、風が吹けばすぐ向きが変わるくらいのもの)が伴わなければ、プロセスは全て無駄、になってしまう。

それ本当?
本当〜〜に、その在り方が好み?

これを何度も何度も自分に問うて、
決め直し、
何度もうっかり古い設定にどハマりし、
またノートで気づき。

やっぱり、全部無かったことにしたくない。
全部、感じて『全て在る』中で生きたい。
そう思っています。

そして、ちゃんと感じるためには、
どうしても避けたくなる

辛い、ネガティブと言われる気持ちを、ちゃんと見ずに『ダメ』という箱に放り込まない。

『ダメ』という名前を付けない。

これだけで、視点が変わってくると思いました。
サユラさん、はるかさん、とても深い、幸せなお話を本当にありがとうございましたラブラブラブ