演劇実験室◎万有引力の第59回本公演『観客席』を観に、三軒茶屋のシアタートラムへ。
2001年の公演の時は観に行ってないので、いやが応にも期待は高まる。
以前に『奴婢訓』の公演をやった高さと奥行きに余裕のある綺麗な劇場で、今回は全席指定。
昨年末のシーザーコンサート『大鳥の来る日』の時に先行発売のチケットを抑えていたので、
最前列のほぼど真ん中という良席をゲット済み(・∀・)
普段から万有の劇を観に行く時はできるだけ体調整えて、観てる時は五感を澄まして、
できるだけ何かしらを吸収して、非日常を日常へ持って帰るぞ、という感じでやってるが、
今回はそういう身構える気持ちが自分の中でも少し昂ぶり過ぎていた様にも思うw
開場時に渡されたカード
裏には…
こんな台詞がw
立ち上がって言わせたりするのかと思ってドキドキしてたけど、
客いじり中に皆で一斉に言っただけで、
安心したと同時に、やや拍子抜けだったw
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まだ公演中ってこともあってややネタバレ的になるが、
・観客席の安全性への疑問の投げかけ。
・俳優と観客のボーダーの曖昧さと、主客逆転の構図。
・舞台と観客席との自由な行き来
みたいなことを実験的に体感できる作品で、主軸となるストーリー何かは無いに等しい、
断片的なオムニバス形式のパッチワークみたいな作品。あくまで短い言葉で言うとだけど。
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自分は劇を1人で観に行くことがほとんどなので、今回は特に
「自分の隣に座っている人は本当に観客なんだろうか?」
っていう疑問を抱きつつ楽しめた。というか、この劇に関してはもし連れがいたとしても、
並び合わない別々の席に座った方がより楽しめるんじゃなかろうか?
そういう注意書き(?)をチケット売る際にしといても面白かったと思う。
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観劇後にポストトークショーがあって、万有の恵篤さんと映画監督の園子温さんの対談があったが、
そこでも時代的に今の観客は守られ過ぎていたり、例えば身体に触れる様な激しい挑発はできない、
そういった制約(この辺のことを園監督は『演劇のBPO』と面白い表現をしてた)があって、
本当に客を劇場やら舞台上の箱やらに閉じ込めたり、それこそ火を使ったりもできない、
ってのをやや嘆き気味に語ってたのが印象的だった。
(そういやシーザーもトークショー出る予定になってたが、キャンセルの模様。
体調悪いのか、気持ち的な問題なのかは知らないけど、園監督も聞いてない様だったから、
急用でもあったのかね?)
話し戻るが、まぁ、その辺は結局は観客側の覚悟の問題なんじゃないかと思う。
何が起こるかわからないビックリ箱を求めて万有の芝居を観に来た人(自分はここ)、
この層だけなら何をやっても許される…と思う。
(プロレスで場外乱闘に巻き込まれても笑って喜んでる客とか、まさにこれ)
ただ、皆が皆そうじゃなくて、たまたま劇場の前を通りかかって当日券を買った人、
付き合い始めたばかりの彼女が演劇が観たいと言うから下調べもせずチケットを2枚買った人、
家から近い劇場なので、その劇場の公演は片っ端から観ているだけの人、
みたいにそれぞれの温度差があるから、じゃぁその中の何処に基準を合わせるかってなる際、
一番低いとこに合わせるのが今の演劇(だけじゃなくTVも広告も新聞だってそう)なんだろう。
見世物小屋的なオドロオドロしさだったり、淫靡で卑猥なエログロだったり、
そういうのをストレートに出せた60~70年代は、結局そういうのを求める客が来てるだけだったから、
劇団も俳優もそれに応えることができたが、今はそれも謳えず、老若男女、玉石混合な集まりで、
難しい話なんだろうか。劇団が大きくなれば商業的な側面を持たせなきゃってのもあるだろうし。
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話し変わって、劇中で言ってた「主役」「脇役」「観客」の3者の関係性。
それぞれの立場は簡単なことで入れ替わることを伊野尾さんと村田さんで説明してたが、
たまに自分が考えてることで「劇が存在しうる絶対条件とは何か?」ってのを思い出し、
観ながら、ずっと考えてた。
劇を素因数分解すると、まず俳優、劇場や舞台、照明、音響、台本、監督などの演出、
チケットのもぎり、観客席、そして観客ってなところか。
まず劇場や舞台は市外劇が存在しうるので無くても構わない。
(街が劇場化しただけで、劇場は存在している、って言えばそうだが、あくまで概念の話じゃなく)
照明は、終始暗転の中で行われる暗闇劇・暗黒劇だったり、それこそ自然光だけでも構わない。
音響も、パントマイム的なサイレントで必要としない。
台本や監督、演出みたいなのも、全てアドリブでやることもできる。
チケットは無料でも構わないし、街角でいきなり劇をおっぱじめればいい。
観客席も、例えば観客を舞台にあげて、役者の隣で劇を観る劇、そんなのだって可能だ。
で、俳優と観客。
結論として俳優と観客、両方いなきゃ成り立たないかっていうと、
実は片方でもそれは問題ないんじゃないかと。
観客が0でも、それでも演じ続ければ、それは演劇。
逆に俳優が一切出てこない、例えば今日の公演でいえば、
初っ端の『燃えよドラゴン』のテーマが流れる中、緞帳だけが開いていく場面もそうだし、
極論を言えば無生物、例えばテーブルに置かれたリンゴを置いておくだけで、
それは劇的なものを生み出す力が内在してるんじゃないか、みたいな。
まぁ、観客がいないと概念的には誰もそこに劇があったことは証明できないから、
劇は存在しなかったとも言えるし、俳優がいなければ空間や時間は劇ではあるが演劇ではない、
とも言えるだろうから、やっぱりこの2つが劇の絶対条件を握ってる。
あくまで、答えというか今現在の自分の答えなだけで、今後変化するものかもしれないが。
とまぁ、みたいなことを考えながら観てた感じ。あんまりまとまってない文章で申し訳ないw
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次回公演は5月にシェークスピア作品を題材にした『リア王』@座・高円寺。
90~91年以来の公演で、当然万有観劇新参者(?)の自分は観たことないので、
これまた期待したい。(先行前売り発売をしてたので、5/18のチケットを購入済み)