もやもやのひ | 多分私はマージナルな人っていうやつなのよ。

多分私はマージナルな人っていうやつなのよ。

いつまでやる気なんだろう、女子大学院生。
今は所属ナシ。でもきっと戻ると思う大学。

もっともっと愛されたいし、愛したい。
溶けてくような言葉と物語を探して、ヒトの居るところを転々と。

 なんかね~。朝から崇仁地区の京都市立芸術大学というNHKの特集番組の再放送見て、複雑な気持ちになったままで1日を過ごしている。

 崇仁地区は、同和地区というような場所で、芸術で環境、その差別だとかを変えていきましょってなってるんだけど、社会的弱者に対する政策ってこれで良いの? って思うことがよくある。

 社会的弱者をなくしていこうっていう方向なんだけど、みんな平等ってなんだ? って思うのね。

 崇仁が特別な場所ではなくて普通な場所になることっていうのはなんか違うなって思っていて、じゃあ良い意味での特別になればいいってこと? って思うと、確かに、西宮北口の南側の皮革産業地域付近が、今、超高層マンション大人気地区になるっていうのもあるわけで、何かテンション的には「躁うつ病」みたいな場所だなって思ったりもする。阪神淡路大震災の時に、西宮北口付近は断層があってよく揺れたので、まぁ科学的な根拠のない「迷信」はあるんだけど、「素敵な街」になっていることにちょっと恐怖を抱いている。

 今住んでいるとか、そこの生まれの当事者の話も大事なんだけど、その場所の歴史も大事で、崇仁という地域がどのように今までやってきたのかというのも考えた方が良いなと思う。

 賤民なんて存在しないという思想はやっぱり、なんか変。賤民という言葉はなくせるけど、「ちがう」はなくせない。社会の想定をはみ出てしまう人は絶対に存在する。理解できるこちら側の人、理解不能なあちら側の人というのはなくならんだろって思う。それをないものにするのは、無理がある。そして、こちら側とあちら側、その間でコミュニケーションをどうとりましょうかというを考える、アイディアを出していくというのが大事なスタンスだけど、これも行き過ぎている気もする。だから、理解不能を全部教育で変えましょう、教育で変わらないのは撲滅ってなると、それは、ジェノサイドじゃん。

 なんだけど、結局忙しくなってくると、多数派の意見優先→少数派は無視→少数派に意味ない→少数派を「良きもの」に変えよう→変わらないやつはいなくなればいい。
みたいなのも起こってるし、反対に、社会の中で少数派は虐げられている、少数派は保護されるべきだ、もっともっとおかねや良い環境くれくれが起こってるのもあるし、「気付く」だけが大事な主題で、それ以上は語れないし、語るだけで解決はないだろうなって思う。多数派も少数派も主張することは、きっと「ねじれ」の関係で、多分それは永遠に繋がることはないと思う。違うベクトルで生きてるから。
(「ねじれ」とか「ベクトル」とかそういう言葉って普通に使いたいんだけど、こういう概念って今の人たちの中にちゃんとあるのかしら。いや、今、昔変わらずこれ分からず大学出てる人がいるのが日本のよくないところだよね。って皮肉ってみる)

 音遊びの会でずっと知的障害のある人たちと音楽を作ってるけど、次に何が起こるかは分からない。例えば、突然の「ポーラ化粧品」という叫びは止められない。何で「ポーラ化粧品」なのかというのはよくわからないけど、POLAのことは彼の中では特別で、わざわざ信号渡らないといけないのに、POLAの看板参りをしていたりする。なぜポーラなのかというのを永遠に追求し続けることもできるし、ポーラ化粧品という叫びと彼について色々考えておくと、一応、彼の中に「私は何か良い人」っていう認識はできてそうだけど、やっぱり、若い優しそうなお姉さんの引力にはかなわない。


 知的レベルの高い自閉症とかだったら文章を書いて自分の考えを表明できるかもしれないけど、「ポーラ化粧品」の彼は、議論のテーブルに座らせるのも難しいと思う。(凄い良い議論になっていたら、突然「劇的ビフォーアフター」とか言い出しそうな気がして、「狙ってただろ」くらいの何かはありそうな気がするけど、それが、「彼が議論をした」という科学的な根拠になるのはかなり難しい)同じ障害者というカテゴリーでも、意見が表明できる人の考えとできない人の考えは随分違うから、仮に障害者の意見を形成できたとしても、それは永遠に終わらない作業になる。


 で、「お話にならない」あちら側の存在をどうカバーしたんだろという話になるんだけど、それは、日本の神話とかの論理を入れていくのが良いんじゃないのかって思ったりするんだけどさ。


童話の「アリとキリギリス」の話があるけど、
これは何を示してると思うのかなとか考えるとさ。
学校で教えると、こうなる。

「先生は、アリは偉い。アリのように毎日一生懸命頑張ろう」

になるかもしれないけど、
今考えると、キリギリスを見殺しにしないのが良い話だと思うのね。

であって、
みんなアリのように普段から一生懸命働きましょう、

キリギリスは死ぬことになるよってなると、

怠けているやつは死んでしょうがないになる

キリギリスは音楽家だったかもしれないし、

そもそもキリギリスは、アリの家にサイズ的に入れないわけで、

アリのふりして毎日頑張ったら、アリの家が崩れてしまうのでは?とも思う。


童話って答えを出さないから意味があるんだけど、

今は答えを欲しがるよね。大体その答えが間違ってるから、今の社会はおかしくなってるんだろうけどさ。