2024年5月3日に京都市立芸術大学で、能楽 翁の講演があります。 | 多分私はマージナルな人っていうやつなのよ。

多分私はマージナルな人っていうやつなのよ。

いつまでやる気なんだろう、女子大学院生。
今は所属ナシ。でもきっと戻ると思う大学。

もっともっと愛されたいし、愛したい。
溶けてくような言葉と物語を探して、ヒトの居るところを転々と。

来年の5月3日に、京都市立芸大の移転記念で能楽公演をやるのですよ。翁・風流・高砂というプログラムでやるんですけど、その企画に携わってて、翁について、どういうもんなのかについて考えるのに頭が忙しいです。

シテ方は、京芸の客員教授の金剛永謹氏、金剛龍謹氏というのがまず決まっていて、京都市の芸大だから京都の能楽師というので配役を固めました。

大学は利益追求のためにあるのではないということで、1000円前後の公演しかやってきてないんですけど、それはちゃんととるべきだということで、ちゃんとチケット代を設定することとか、そういうのを相談しながら、なんか企画に携わってます。

研究の一環ともいえるし、ボランティアでもやりたいと思えるよな仕事でもあるんだけど、生活できるには程遠い感じでなんかお手伝いをやってます。いつもいつも思うのは、こういうことをするから、お金が配分されなくてもなんとかなるって偉い人々に思われるようになるから、やったらあかんねんって思いつつ、公演に来てくださる方が、ちょっとでも能楽とか翁・祝言のことを知ってもらえたら、ええなって思いつつやってるとこ。

北大で歴史学・人類学をやっていた時に、折口信夫の「古代研究」という本に出会ったのですが、そこに翁の発生という項目があります。ようやくこの本が理解できる域に辿り着いたなというところで、20年まえに学んでいた学問と、つい最近まで学んでいた学問が繋がるようになってきたところ。翁は、「能にして能にあらず」という演目で、儀礼的な要素が強いのですが、これをどう説明するのが良いのかというのを考えながら、何も答えが浮かんでこない。私の頭の中でぐるぐる回っているものは、エッセイ的にしか書けんなぁ。むぉ。

クリス・ゴスデンの「魔術の歴史 氷河期から現在まで」というのを読み、フレイザーの「金枝篇」や、マックスウェーバーを引用しながら、魔術を説明しているのを見ながら、おもろいなぁと思うのですよ。人類史の総体を科学・宗教・魔術の三重螺旋から成り立っているとかの記述に出会うと、科学では説明できないことにチャレンジしていくのには面白そうだなとは思いつつも、現存の大学やら研究システムでは、到底無理という壁にもぶつかります。

とりあえずは、5月3日の京都市立芸術大学の翁公演に向けて、出演する能楽師の方々のインタビューに携わって、刺激を受けていこうと思っています。

シテ方、狂言方、小鼓方、ワキ方で出演する能楽師の方々にインタビューしているところです。役割ごとに、見ている景色が違っていて、面白いなぁって思ってるところ。一般的に、能楽っていうと、シテ方能楽師に焦点が当たりますが、役割ごとに違っていて、それって多様性じゃないかな。そっか色んなものが能舞台上で交わってるから面白いんだ、なんて生意気な感想を抱きましたよ。

翁は、精進潔斎のある演目で、女性が演じることはできません。舞台脇での「お盃事」というお清めの儀式もあり、女性との接触が禁じられるような慣習もあり、それは導線的にちゃんとできるんかいなというのも考えてます。まだ校舎に入れないので、入ったらそれも調整します。そして、何でその慣習を今も続けるのかという問いなんかについても考えてます。「日本呪術全書」という「呪術廻戦」を理解するための本を読みながら、願掛けのための「××断ち」とかそういうのの類似かねぇと思ったりだな、「呪術廻戦」のメカ丸と真人の間の‘’縛り‘’とかのやつかねとか思ったりだな。これは日本独特ではなく、ケルトのクーフーリンが超人的な力を得るためにやってたゲッシュ(タブーのアイルランド語)っていうのも近いよなぁとかだね。こういうあほなことを考えてるわけです。表面的にはこういうことにしましょうっていうので行くだけでいいのかもしれないけど、色々頭の中でかんがえておくことで、現場で納得のできる対応ができるようにとか願いつつ。

これだけでも頭が忙しいのに、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)で、翁をやったチンドン屋さんが出てきたり、そこにあきら先生の名前が出てきたり、情報についていくのが精いっぱいで、うまく理論まで持っていけません。

おっと勉強は止めようと思ってたんだ。。。
5月3日の公演に向けて、ボチボチ何かやってきますので、何か能楽に興味を持っていただけると嬉しいです。