原爆投下 の真相 | 大局観

原爆投下 の真相

『大統領の決断なき 原爆投下』
(2016年8月6日「NHKスペシャル」)

≪アメリカの大義≫
1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を投下した。

当時の大統領ハリー・トルーマンはアメリカの全国民に向けラジオ演説で
「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した。皆さんも同意してくれると思う。」と語った。
多くの命を救うために決断したと正当性を主張したトルーマンの決断は、今に至るまでアメリカ社会で原爆投下の‘大義’とされてきた。

ところが、
①トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたことが分かってきた。
「人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。日本の女性や子どもたちへの慈悲の思いは私にもある。」
②さらにトルーマンが原爆投下に対して明確な決断をしていなかったという新たな事実も明らかになった。

空軍士官学校の図書館の書庫に原爆計画の全てを知る人物のインタビューテープが未公開のまま保管されていた。原爆計画の責任者をつとめていたレスリー・グローブス准将へのインタビュー(1970年4月3日)。原爆投下の経緯を語っていた。

「大統領は市民の上に原爆を落とすという軍の作戦を止められなかった。いったん始めた計画を止められるわけがない」(グローブス准将)

当時のルーズベルト大統領が極秘に始めた原爆開発が「マンハッタン計画」。1942年9月、グローブスはその責任者に抜擢された。全米屈指の科学者を結集し、研究施設や工場を建設。22億ドルもの国家予算をつぎ込み世界初の原爆の完成を目指した。

≪トルーマン、突然の大統領≫ 
ところが1945年4月、原爆の完成を待たずにルーズベルト大統領が急死。その直後に大統領に就任したのが当時、副大統領だったハリー・トルーマンだった。
ルーズベルトから引き継ぎもないまま、突然巨大国家プロジェクトの最高責任者となった

グローブスが就任当初のトルーマンについて語っていた。
「トルーマンは原爆計画について何も知らず大統領になった。そんな人が原爆投下を判断するという恐ろしい立場に立たされた」

実は政権と軍の間で知られざる攻防があった。
攻防の始まりはトルーマンが大統領に就任した13日後、大統領執務室でのこと。この日、グローブスはトルーマンに原爆計画の進捗状況について初めて説明し、計画の続行を認めてもらおうと訪れていた。

これまで原爆をどこに落とすかなど、詳細は報告されていなかった。
アメリカでは選挙で国民に選ばれた大統領が最高司令官として軍を統制する文民統制という仕組みがある。重要な軍の決定事項は大統領に報告し、必ず承認を得ることになっていた。このとき、グローブスは24ページの報告書を持参。報告書には原爆の仕組みや核燃料の種類、予算などが簡潔に書かれていた。原爆開発が成功すれば戦争に勝利するための決定的な兵器になると強調していた。しかし、大統領の反応は意外なものだった。

「大統領は報告書を読むのは嫌いだと言った。原爆開発の規模を考えると特に長いとは思えなかったが、彼にとっては長かったようだ」(グローブス)

トルーマンはこの報告書の詳細を知ろうとはしなかった。この時、グローブスは計画の続行が承認されたと考えた。

≪大量投下を計画≫ 
実はすでにグローブスは軍の内部で原爆投下計画を極秘に作成していた(1944年12月30日)。
「最初の原爆は7月に準備。もう一つは8月1日ごろに準備。1945年の暮れまでに、さらに17発つくる」
グローブスは原爆の大量投下まで計画していた。軍の狙いに気づくことなく、トルーマンは計画を黙認する形となった。

「私の肩にアメリカのトップとしての重圧がのし掛かってきた。そもそも私は戦争がどう進んでいるのか聞かされていないし外交にまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ」(トルーマンの大統領就任当日の日記)

この頃、ヨーロッパではナチスドイツが降伏寸前で、太平洋戦争でも日本を追い詰め戦争をどう終わらせていくのか舵取りが求められていた。さらに戦後の国際秩序を決めるソ連などとの熾烈な駆け引きがトルーマンの肩にのしかかっていた。

大統領から原爆計画の承認を得たと考えたグローブスは、最初の面会から2日後、計画を次の段階に進めた。原爆を日本のどこに投下するのかを話し合う目標検討委員会の議事録を見ていくと、軍が何を狙って原爆を落とそうとしていたのかが分かってきた。

≪時期≫ 
「日本の6月は梅雨にあたり最悪だ。7月はまだましだが8月になって良くなる。9月になるとまた悪くなる」(気象の専門家ランズバーグ博士)
8月の投下が決まった

≪目標地点≫ 
目標地点については、物理学者が見解を述べていた。
「人口が集中する地域で、直径が5キロ以上の広さがある都市にすべきだ。それも8月まで空襲を受けず破壊されていない都市が良い」(物理学者スターンズ博士)
狙いは、最大の破壊効果を得ることだった。
選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所(東京湾、川崎、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、呉、山口、下関、小倉、八幡、福岡、長崎、佐世保、熊本)。
その中で広島と京都が有力候補にあがっていった。

「広島には広い平地があり、まわりが山に囲まれているため爆風の収束作用が強まり大きな効果があげられる」(物理学者スターンズ博士)
「京都は住民の知的レベルが高い。この兵器の意義を正しく認識するだろう」

2つの都市のうちグローブスが推したのは京都だった。
「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」(グローブス)

5月30日、グローブスはトルーマンの側近の部屋に呼ばれた。陸軍長官(文民)のヘンリー・スティムソン
「スティムソンの部屋を訪ねると、投下目標の候補は決まったかと聞いてきた。ちょうど決まったところですと答えた。どこが候補になったかと聞かれ都市の名前を伝えた。すると京都は認めないと言われた」(グローブス)

なぜスティムソンは京都への原爆投下に反対したのか?

≪残虐行為≫ 
「この戦争を遂行するにあたって気がかりなことがある。アメリカがヒトラーをしのぐ残虐行為をしたという汚名を着せられはしないかということだ」(スティムソンの日記 6月6日)

スティムソンはかつて京都を2度訪ねたことがある。原爆を投下すれば、おびただしい数の市民が犠牲になると知っていた。スティムソンはこの頃激しさを増していた日本への空襲が国際社会が非難する無差別爆撃にあたるのではと危惧していた。これ以上、アメリカのイメージを悪化させたくなかった。

≪執拗な京都狙い≫ 
一方、グローブスは諦めていなかった。スティムソンとの面会から1か月後、京都に軍事施設があるという報告書を作成した。京都駅や絹織物の糸を作る紡績工場を軍事施設として報告していた。
「京都は他の軍事目標と何ら変わりません、とスティムソンに伝えたところ、京都への原爆投下は軍事的な意義がないと認めてくれなかった。認めてもらうため彼のもとに6回以上通った」(グローブス)

京都への投下は国益を損なうと考えていたスティムソン。グローブスの提案を認めようとはしなかった。

≪降伏前に原爆の効果確認≫ 
7月16日、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が成功。原爆の実践での投下が現実のものとなった。一方で、日本ではすでに多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近とみられていた。
グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えた。
「原爆が完成しているのに使わなければ議会で厳しい追及を受けることになる」(グローブス)
22億ドルの国家予算をつぎ込んだ原爆計画。責任者として効果を証明しなければならなかった

原爆実験から5日後、スティムソン陸軍長官に部下から緊急の電報が届いた。
「軍人たちはあなたのお気に入りの都市、京都を1発目の投下目標とする意向のようです」(スティムソンの補佐官からの電報)
軍は京都への原爆投下をまだあきらめていなかった。3日後、スティムソンはトルーマンに報告。京都を外すよう求めた。

≪あくまで軍事施設に≫ 
「私は原爆の投下は、あくまでも軍事施設に限るということでスティムソンと話した。決して女性や子供をターゲットにすることがないようにと言った」(トルーマンの日記 7月25日)

トルーマンは市民の上への原爆投下に反対していた。ところが、このあと大統領の意思とは全く異なる方へと事態は進んでいった。

トルーマンのもとに軍から届いた新たな投下目標を記した報告書の最初にあげられていたのは広島だった。34万人が暮らしていた広島。市内には日本軍の司令部が置かれていた。一方で、西洋の文化を一早く取り入れた活気ある市民の暮らしがあった。ところが、報告書には「広島は軍事都市だ」と強調されていた。

「報告書は広島が軍事都市だと伝わるよう巧みに書かれていた。目標選定を行っていたグローブスたちが意図的にだまそうとしていた。」(カリフォルニア大学ショーン・マローイ准教授)

「軍は原爆によって一般市民を攻撃することはないと見せかけた。トルーマンは広島に原爆を投下しても一般市民の犠牲はほとんどないと思い込んでしまった。」(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)

結局、トルーマンが投下目標から広島を外すことはなかった。

7月25日、グローブスが起草した原爆投下指令書が発令された。
最初の原爆を広島、小倉、新潟、長崎のうちのひとつに投下せよ。 2発目以降は準備ができ次第投下せよ。

≪大統領の承認?≫ 
この原爆投下指令書をトルーマンが承認した事実を示す記録は見つかっていない。原爆は大統領の明確な決断がないまま投下されることになった。人類初の大量殺戮兵器の使用は、軍の主導で進められていった。

8月6日、午前1時45分、部隊はテニアン島を離陸。そして8時15分、広島に原爆が投下された。

このときトルーマンは大西洋の船の上にいた。戦後処理を話し合う、ポツダム会談の帰り道。原爆投下の一報を受けたトルーマンは船の中で演説を収録した。
「先ほどアメリカ軍は日本の軍事拠点ヒロシマに1発の爆弾を投下した。原子爆弾がこの戦争を引き起こした敵の上に解き放たれたのだ」

このとき、軍の思惑には気づいていなかったとみられている。
トルーマンが認識の誤りに気付いたのはワシントンに戻った直後だった。その時のことをがスティムソンの日記に克明に記されている。

「8月8日の午前10時45分、私は大統領を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せた」(スティムソンの日記 8月8日)

その時見せたとされる写真は空から撮影した原爆投下直後の広島。直径5キロの市街地がことごとく破壊されていた。
その時トルーマンが発した言葉「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」

軍の狙いを見抜けなかった大統領。明確な決断を行わなかった自らの責任に気づいた。しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走した。同じ日、テニアン島ではすでに2発目の原爆の準備が整っていた。止められるのは最高司令官の大統領だけ。しかし、原爆は長崎にも投下された。広島の写真を見た半日後のこと。トルーマンはこのときの心境を友人への手紙に記していた。
日本の女性や子供たちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している」(トルーマンの手紙 8月9日)

8月10日、トルーマンは全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する決断を伝えた
トルーマンは、この場で「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい」と発言した。
3発目の準備をしていたグローブスだが、大統領の決断には従うしかなかった。
「3発目の準備を中止させた。大統領の新たな命令がない限り投下はできなくなった」(グローブス)

日本への原爆投下がようやく止まった。

≪後付けの言い訳≫ 
大統領の明確な決断がないまま行われた原爆投下だが、このあとトルーマンはその事実を覆い隠そうとしていった。
長崎への原爆投下の24時間後、国民に向けたラジオ演説で用意されていた原稿にはなかった文言が加えられていた。

「戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」

研究者はこの言葉が、市民の上に投下した責任を追及されないよう後付けで考えられたものだと指摘する。

「トルーマンは軍の最高司令官として投下の責任を感じていた。例え非道な行為でも投下する理由があったというのは大統領にとって都合の良い理屈だった。このとき、命を救うために原爆を使ったという物語が生まれた。世論を操作するため演出された。」(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)

8月15日、日本が降伏すると世論調査で8割のアメリカ国民が原爆投下を支持した。原爆投下は正しい決断だったという定説が生まれた。


<引用>
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160806




以 上