白と黒の横縞、胸には数字の印刷された名札。僕はその夜、囚人服を纏って渋谷を歩いていた。口から下げたチェーンは歩く度にじゃらり、と音を立て、その度に心が弾んだ。歩きながらよくよく周囲を見渡すと魔女、ヴァンパイア、ミイラなど実に種々様々なコスチュームが僕の視線を奪っていった。どう見ても適齢期を過ぎた似非女子高生がいたのも覚えている。こうして、どんな角度から見たって街はいつも以上に浮かれて見えたけれど、僕だってその夜ばかりは奇妙な街を形成する動物の一人だった。
駅から離れて坂を上り、細い路地を勇み足で歩いた。目的地の建物の周りには多くの若者がたむろしており、その中の一人が僕を呼び止めた。「久しぶり」声のする方を見やると、チャイナドレスを着たお団子頭の女の子がいた。「飲みなよ!」それと同時に渡された小さな白い紙コップ。あまりの唐突さに一瞬、気が動転したが、僕は返事をするより早く紙コップに注がれた飲み物を飲み干した。テキーラだった。辛かった。
トランプルームと呼ばれるその建物では、例年通りのハロウィンパーティーが行われていた。大勢の人が集まり、酒を飲み、踊る。ある者は異性を口説き、ある者は写真を撮ることに夢中になっていた。僕はそこでの時間に浸ることで幻想のような空間に酔い痴れ、また、自身も吸い込まれていった。この空間が持つ魅力は今も衰えない。
あれから半年が経った今も、トランプルームには人が溢れている。どんな時期でもここではパーティーが催されており、僕は相変わらずその現実離れした非日常の中に身を投じるため、しばしばここを訪れる。今でこそ魔女もミイラも、チャイナドレスの女の子も見当たらないが、およそ仮装ともとれる派手な服装に身を包んだ、いつかの同一人物と戯れ、そしてまたテキーラをクッと飲み干しては、その独特の辛さに喉を熱くさせている。
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「闇」と呼ばれる場所がある。そこでは何時だって、憂鬱の黒いマントを纏った誰かが、水面を揺らぐ花弁のようにたゆたっているのだ。

闇の中にいる彼は、あろうことか苛立ちを感じたときばかり飛び出してきて、悪戯をする。彼は、モラトリアムの真っ只中にいる僕に追い討ちをかけるように首を絞める。彼が、ナイフを手にする。よりも早く、水のようにコポコポと音を立てて真紅の放物線が僕の前を通り過ぎた。
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そうだ、私は、あの時、どうしてか、この灰を、ひどく愛おしく思ってしまった、のだ。
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夜とネオンの灯りに彩られた街を歩く。辺りには数えきれないほどの 黒い服を身に纏った男たち が立っていた。黒い服の連中は揃って体付きがしっかりとしており、仮に私が彼らに殴りかかったとしてもふらつくことすらなさそうに見えた。しかし彼らは大袈裟に頬を緩め、薄気味の悪い表情で通行人に声を掛けていた。

「キャバクラのお探しはないですか?」右耳がそんな声を拾った。目を上げると反吐が出そうなほどにこやかに笑う男が立っていた。私は速やかに視線を落とし、全てを視界の隅に追いやるようにしながら歩いた。

私は他者とコミュニケーションを交わすことが得意ではないため、とにかくこの黒い服の男たちから逃げたかった。「ねぇ、そんなに急いでどちらまで?」今度は左耳がその声を拾った。声の種類は明らかに今までのそれらとは違い、艶やかでか細いものだった。引力か何かに引っ張られるように視線を声の主の足元へ向けると、そこには赤い着物が映り込んだ。着物にはいくつもの小さな黒い花紋が入っていた。徐々に視線を上げていく。次に目に映ったのは、透き通るような白さの女性の顔だった。決して化粧は華美ではなく、透明な肌に際立つ真っ赤な唇が印象的だった。頭上には黒光りする髪が丸く束ねられており、赤い簪(かんざし)がちょこんと刺してあった。細い首すじには薄く筋が浮いており、少しでも首を絞めようものならこの女は目を瞑り、苦しみ、あっという間に天国へでも行ってしまいそうだった。女の口が動く。「ねぇ、殿方。黒い花をその白い瞳に映したことがあって?」「え?」聞き返すと女は背中を向け、雑居ビルに消えていった。私はまるで幻覚でも見たように暫く呆然としてしまった。「お兄さん、抜きのご利用は?ばっちりな子揃ってますよ!」
次、微かに耳に入り込んだものは、雑音だった。

家に帰ると居間のテーブルの上にはラップに包まれた料理があった。これは誰が用意したものなのか。自分以外の誰かが用意してくれたものならどんなによいことだろう。無論これは、家を出る前に自分で作っておいた炒め物だ。ジャーの中で孤独死してしまいそうな冷たいご飯を茶碗に盛り、点けたテレビを背にしてモソモソと晩飯を食べる。すると後方からあの声が聞こえた「ねぇ、殿方。黒い花をその白い瞳に映したことがあって?」後ろを振り返る。目に映ったのはしょうもない娯楽番組だった。タレント達が笑い転げている様が見える。確かに私はあの声を聞いたような気がしたのだが。収まらぬ鳥肌を抱え、晩飯を済ませた。

窓際に干してあった下着を手に取る。洗濯バサミがカチッと鳴く。浴室の電気を付け、中に入る。レバーを右に捻ると、シャワーがザァザァと音を立てて流れ始めた。今日は不思議なことが起きる日だ。二度もわけのわからない言葉を耳にしたけれど、一体あれは何だったのか。自分が疲れてるだけなのだろうか。考え始めるとキリが無かった。今日はもう寝よう。シャワーを浴び終え、部屋干しばかりでがさがさになったタオルで体を拭きあげる。タオルは所々に水分を吸収して柔らかくなった。けれど、どうして柔らかくなったものが重くなってるのか。私には理解し難い。考え始めると止まらないので、クスリをキメて、下着を履くとそのままベッドへ倒れ込んだ。

「ねぇ、殿方。黒い花をその白い瞳に映したことがあって?」夢の中に、またあの女が出てきた。「あなたは、誰?」「なぜ、僕のところに来るの?」何を聞いても女はただ笑みを浮かべるだけだった。(黒い花について、訊くべきだろうか)そう思った瞬間、女は囁くかのように艶やかに「チョコレイトコスモス」とだけ呟いた。

目を覚ますと、空は赤く染まっていた。掛け時計は5時を指していた。外は朝焼けかと思われたが、携帯には会社の上司と同期からの不在着信が8件とPとMの文字が。あぁ、やってしまった。今から会社に行く気にもなれないし、どうしたものか。悩みながらも外出する支度をしていた自分を見ると、どうやらこの部屋の外には出るつもりらしい。本能とは時に恐ろしいもので、考えるより先に行動を始めていることがあるものだ。靴を履き、街に足を向ける。段々と視界にはネオンと黒い服の男たちが映り込み始める。足が止まったその場所は、昨夜、あの女に出会った雑居ビルの前だった。(そういえばこのビル、入ったこともないな)ビルの中に入ると、
奥に一つ灯りの点った店があった。店の前には種類様々な花が立派に活けられており、看板には大きな文字で「花」とだけ書かれていた。店を覗き込むと、奥から一人の女が出てきた。「何かお探しですか?」咄嗟に口を吐いたのはこれしかなかった。「黒い花を、いえ、チョコレイトコスモスを探しているのですが」女は驚いたような顔で「チョコレイトコスモス、ですか?」と再度確認をとった。

「この花は半耐寒性を持っているけれど、放っておいても日本の冬の寒さに耐えきれるほどは強くないんです。決して一人で放っておいたりしないでくださいね。」花屋のお姉さんが丁寧に教えてくれていたが、特に育てるつもりも無い私には到底、無関心の沙汰であった。私はただ、この花を手にすることによって、あの女が言ったようにこの瞳に映すことによって、何かわかるかもしれないと思っただけなのだ。一通りお姉さんの話を聞き終えると、店を出てビルの前であの女の声を聞いた。「あら、チョコレイトコスモスなんか買ってどうするおつもり?」振り返るとビルの中には煙管を吹かしている着物姿の女が立っていた。「あなたは一体誰?」この前と同じ質問をしたが、やはり女は返事をせず、ただ笑みを浮かべるだけだった。笑みを浮かべていた女は急に真剣な眼差しになり、こちらに迫ってきた。足が、いや、体が動かない。知っている、この感覚。金縛りだ。女は段々に距離を詰めてくる。互いの鼻が触れ合いそうな距離で女は歩みを止めた。そして私の目を見て一言「待ってます」とだけ告げるとまた姿を消した。

帰り道は真っ暗闇だった。妙に冷える夜だったが、星がゴウゴウと燃えているのがよく分かる夜でもあった。家に着くと、鍵が開いていた。「やっぱり」
この先はもう手に取るようにわかる。居間と廊下を隔てるドアーがガチャリと音を立てて開いた。「お帰りなさいませ」「あぁ、ただいま」居間はフローリングだったはずだが、いつの間にか和室になっており、ベランダへ通じるドアーには障子が張られており、隅には行燈が、部屋の中央には一枚の白い布団と、二つの「黒い枕」が用意されているのが目に映った。「なるほどな。」女は一瞬、不思議そうな表情を見せたが、すぐに私の元へやってきて頭の中で何度も繰り返したあの台詞を囁いた。「ねぇ、殿方。黒い花をその白い瞳に映したことがあって?」赤い着物に映える黒い花紋が目に映った。「あぁ、今目の前で咲いてるさ」

私は女を事後そのまま朝まで抱き締めていたつもりだったが、目を覚ますと女は消えていた。居間にはいつもの見慣れた空間が拡がっているだけだったが、微かに煙管を吸った匂いが残っていた。居間を抜け玄関へ出ると、玄関いっぱいに真っ赤な花が敷き詰められており、その中央にはちょこんと小さく、一輪のチョコレイトコスモスが置かれていた。私はそれをすくい上げると、片付けることなく仕事へ向かった。

夜、仕事が終わると私は急いで帰路についた。家に帰り、玄関を開けると女が立っていた。女は真っ赤な着物を翻してこちらを振り向くと「また来てくれはったんですか?」と艶やかな表情を私に突き刺してきた。「いや、黒い花が見たくなったんだ」そう告げると女は私の手を引いて居間へと向かった。私は見逃さなかった。その瞬間、女の頬が一瞬桃色に染められていたことを。朝になればまた女は消えて、この部屋も元に戻るだろう。意識の中でしか会うことの無い私と彼女は、夜の間しか繋がれない。叶うことも進展することも、叶わないことも後退することもない恋事。それでもいいから、今夜も貴女を、抱き締めていたい。「ねぇ、殿方。遊女をその白い瞳に映したことがあって?」
小人たちは 踊るよ踊る
白いひげを ゆぅらゆら
エッサ、エッサ、エッサッサ
それを見ていた少女が「小さな声ね」と呟いてみせたよ
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携帯電話が鳴った。ヒビ割れた画面には、見覚えのある名前と「今から会えない?」のメッセージ。無視することも拒否することもできたが、私は一言、「いいよ」と返事を送り返した。

近くのコンビニの駐車場で、あのトヨタ車が来るのを待つ。耳元では小さく新宿系の某歌い手の声が鳴っている。二本目の煙草を吸い終えるのとほぼ同時に、灰色のカローラがやってきた。「お久しぶりです」軽い会釈をして車に乗り込む。彼は私に、コンビニで買ってきたと思われるブラックコーヒーを手渡すと一言「寒いねぇ」と呟いた。それが私に向けたものなのか独り言なのか区別ができなかったので、私はただ正面のフロントガラスを見つめて小さく頷いた。雨が酷く打ち付ける夕方、その言葉を最後に私たちはホテルに着くまでの間、車内で一言の会話も交わすこともなかった。

「その節は、どうも」口火を切ったのは私の方だった。目の前にはこれでもかと言う程にブティックホテルらしさの広がった部屋が存在していた。このまま他愛ない会話をしてやり過ごしてしまいたかった。しかし直後、男は「疲れてるでしょう?マッサージをしてあげるよ」と言い放った。(あぁ、今日も失敗だ)ふと、そんなことを考えた。私は今日も素性のわからない男に抱かれる。ベッドにうつ伏せになった私の背中を、男の手が這う。誰か、愛おしい人間に触られたような感触とは似ても似つかない、虫でも這っているような感覚。気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い。

電気を点けると、シーツにはドット柄のシミが広がっていた。枕元にあるボックスティッシュに手を伸ばす。それを内腿の辺りから足の付け根までサッと滑らせると、私はベッドから立ち上がって煙草を吸った。天井に向けて吹きかけた煙は四方八方に伸びてゆき、天井に沿って細い裸体を充満させた。「シャワー、浴びてきますね」「俺も一緒に、いいかな?」何も答えずに私はシャワールームのドアノブに手を掛けた。この扉を開けば、全て消える。温いシャワーを頭上から浴びれば、あの男の匂い、指紋、記憶、それら全てが排水口の中に流れてくれる気がした。ただ、皮膚に残った感覚はどうだろう。私はきっと一生、あの汚物のような男に触れられた感覚と付き合っていかなければならない。今まで私に触れた美しい手や暖かい手の感覚を思い出した。私の感覚の引き出しに、新たにあのべたついた手の感覚がインプットされた。今日帰ったら、酒でも飲もう。この感覚が無くなるまでアルコールが浸透してさえくれれば、私はきっとすぐに解放される。明日からはまた仕事だ。知らない。あぁ、でも、まだ、嫌だ。まだ、死ぬのは、早い。シャワールームの床には黒みの混じった赤色が
広がり、大きなバスミラーには私と、私の背後に立つ男の顔が映っていた。
目ヤニの一つも無い快適な朝だった。布団から出ると、肌に突き刺すような冷気を感じた。「今日であの学校とお別れ」そう思うとなんとも清々しい朝だ。

リビングに出ると、昨日の夕飯が彼を出迎えた。ラップもかけられずに放置されたそれらを、彼はまるで大きな漬物石でも運ぶかのように大袈裟に電子レンジの中へ運んでみせた。昨夜見た鮪の刺身は綺麗な赤色だったが、彼の前に虚栄のごとくご起立しているそれは、若干の赤黒さを帯びていた。彼が怪訝な表情を見せるのとほぼ同時に、レンジが小さく「チン」と鳴った。

「お母さーん?」母親の寝室から返事は無かった。「あ、そうか。」部屋に乱雑に転がった彫刻刀を布で丹念に拭い、それをポケットに放ると、彼は小さく「いってきます」と呟いて家を出た。白い寝室では、ミスマッチな赤い模様だけが朝日に照らされ浮かんでいた。
薄暗い灯りの咲く部屋で目を覚ました。昨夜のことはあまり覚えていないが、横で見知らぬ男が寝息を立てているのを見ると、どうやら私は「お持ち帰り」というやつをされたみたいだ。怠さの残る体を起こし、ラベルに[CHIVAS]と印刷されたウィスキーをゴクリと飲む。スコットランドで産まれたというそれは、長い旅の末に狭い日本で、この怠慢の漂う部屋に行き着いたのだ。男女が乱れた事後の部屋で手をかけられるそいつは、一体どんな気持ちでいるのだろう。しかし、鈍いボトルの持つ雰囲気と、滑らかな飲み心地が最高に愛おしい。アルコールが私の体を駆け巡る音が聞こえた気がした。「キメたい」一言そう呟いた私は、ハイライトの先から少しだけ葉を抜いた。慣れた手つきで煙草の先に緑の葉を詰めると、私はくるりと巻き紙を捻り、マッチに火を点けた。リンの香りが鼻の奥にねっとりと迫り来る。特製の煙草を深く吸い、しばらく息を止めて私の視界を遮る薄桃色の壁を見つめた。壁に掛けられた額縁の中には異国の街の冬景色と、タータンチェックのキルトを履いた老人が描かれていた。下の方には小さく“Caledonia”と書かれていた。「カ、レ、ド、ニ、ア
?」私はもう一度煙草を吸って、また息を止めた。すぐに携帯電話を使って調べる。自称アナログ人間の私も、こんなところで文明開化が進んでいる。

携帯電話の画面にはすぐにスコットランドという表示が出た。Caledoniaとはラテン語でいうスコットランドのことだったらしい。私はなんだか嬉しくなって、ウィスキーと絵とを交互に見比べた。壁から絵を取り外した私は、それとウィスキーをベッドで寝息をたてている男の横に、起こさぬようそっと置いた。頬を緩ませながら私はテーブルに、小さな置き手紙を置いていった。手紙の右下に、キスマークをつけるのを忘れなかった。私は渋谷のクラブへ向かった。

男が目を覚ますと、横に彼女はいなかった。代わりに、[CHIVAS]と書かれたウィスキーボトルと、一枚の絵画が置いてあった。寝坊だ。そんなことを思いながら急いでスーツに着替えて、ホテルを飛び出した。数分後、清掃員が彼女らのいた部屋を訪れた。テーブルには一枚の紙切れが、忘れさられたように佇んでいた。キスマークのついたそれを手に取る清掃員。そこには“Welcome to The AIDS World”とだけ書かれていた。

薄暗い灯りの咲く部屋で目を覚ました。昨夜のことはあまり覚えていないが、横で見知らぬ男が寝息を




6月。ジューンブライドだとか世間では言われるけれど、私たちはそんな言葉をこれっぽっちも考えることなく籍を入れた。
結婚という束縛を受けてから一年が経過したが、特に変わったことといえば苗字が変わったことくらいで、結婚前に授かった子どもも、旦那も、これといった変化はなく一年分の歳を重ねた。周りの人間はこれを「安定している」と言うのだろうが、ただ退屈な日々を365日も送ってきたことに私は嫌気が差す。

結婚記念日には退屈な旦那様からネックレスを貰った。薄くて細いチェーンにいくつもの金色の蝶がチャームとして繋がれていた。ひ弱な鎖にひ弱な蝶が繋がれていて、この飛べない蝶たちはまるで夫婦の関係のようだった。こんな独占欲の塊ともとれるプレゼント、どうして買ってきたんだ。こんなものを買う旦那も、こんなものを置いている店も、こんなものを置く店しかないこの街も、みんなみんな退屈だ。憧れの中央線だって暮らしてみればこんな街。

「お帰り。」家に帰るとリビングから聞き慣れた声が聞こえた。中肉中背で、何の特徴も無いうちの旦那、治。<彼は昔の彼ならず>とはまさにこのことか。そんなことを考えながら靴を脱ぎ捨て、ため息を混ぜたような声で「ただいま」と返した。玄関からではよくわからなかったが、リビングには旦那の他にもう一人、懐かしい顔があった。これが私の息子・・・であればよかったのだけど、この顔、誰だっけ?疑問を遮るように陽気な声が耳にするりと入ってきた。「お久しぶりです、美知子さん。」このとき私はなんとも間の抜けた顔をしていただろう。思い出した。そうだ、この女の子。間違いない。「園子ちゃん、だよね?」「はい、ご無沙汰しています」この容姿端麗な女の子は、大学時代に私と治が所属していたサークルの後輩、園子ちゃん。なぜこんなところにいるのだろう。「さっき三鷹駅の改札で偶然出会ってさ、駅からそう遠くないところに部屋を借りてることや子どもがいることを話したら、来てみたいって言うから連れて来たんだ。別に変なことはしてないからな」笑いながら治はそんなことを言ったが、当たり前だ。これだけ綺麗な女の子がお前みたいな
男とどうにかなってくれるはずもない。そもそも久しぶりの対面でこの男はよくそんなことが言えるものだ。「今お茶、出すね」そう言って一旦私はリビングを出た。

「園子ちゃんは今彼氏とかいないの?」そう尋ねながら紅茶を差し出した。「そうですね、もう長いこといませんよ。美知子さんと治さんは付き合いも長かったし結婚してもう一年くらいですよね?羨ましいです。」治が得意気に「昨日でちょうど一年記念日だったんだ」と言ったが、辱めを受けているようで、私はすぐに被せるように「こんな旦那で良ければあげるよ」と呟いた。「晩ご飯の材料とケーキでも買ってくるね」私はそう言って部屋を出た。「正樹の面倒は?」ドアの向こうからそんな声が聞こえた。正樹は私たちの息子。「家にいるならあんたが面倒みてやりなよ」ドア越しにそう言ってやった。

「あれ?家に牛乳あったかな?」ポケットの中から携帯電話を取り出し、家に電話をかけてみたが、繋がらなかった。治はよく居留守を使う。面倒だから、出ないのだ。私も家にいれば電話がかかってきても居留守を使ってばかりで、私たち二人が暮らしている環境で、自宅用の電話は全くもって意味をなさない。今度は直接、治の携帯に電話をかける。ワンコール、ツーコール、スリーコール。出ない。とことん使えない男だ。一度家から少し離れたところだったが、また足を自宅に向けた。

この静かな住宅街を悠々と流れている玉川上水という川がある。この川に沿って歩くと私たちの住むマンションの裏手に出る。道端に落ちている小石を蹴飛ばしながら、家へと向かった。陽が落ちてきていた。それにしても園子ちゃんは、三鷹なんかで何をしていたんだろう。地方出身の彼女は、大学の最寄り駅であった武蔵境の駅の側で一人暮らしをしていた。武蔵境といえば三鷹のすぐ隣の駅だが、三鷹に来たところでこの街にはこれと言って買い物する場所も特に無い。かと言って治なんかに会うために来た可能性なんかはほぼ皆無に等しい。そんなことを考えていると、あっという間にマンションに辿り着いた。廊下に響く私の足音。どこかの部屋から漂うカレーの香り。そうだ、今日はカレーにしよう。部屋の前に立つと、中からはさっきまでのような陽気な話し声は無かった。代わりに聞こえてきたのは、間違い、ない。男女の、営みの、声。まさか。嘘だ。悔しいとか悲しいとか、そんなものじゃない。どうしてあんな男が、園子ちゃんのような綺麗な女の子と。微かに、正樹の泣き声も聞こえた。ドアの郵便受けを少し開くと、動物の蠢く影が二つ。確かに二人は、男女の関係にな
っていた。私はそっと、その場を立ち去った。歩く方向など考えることもなく、自然と足が動いた。6月13日。結婚記念日の翌日であり、誰かの命日でもある今日。私は青黒く流れる玉川上水の沿道に立っていた。ただ突っ立っている私の頭上に、ポツリと、雨が、降り始めた。今日くらい、幸せな瞬間を全身で感じたい。幸福に脳を、心を、犯されたい。解放を。私は首元にぶら下がったいたネックレスを外し、鎖に繋がれた蝶を一つ一つ外してやった。用の無くなった鎖をそっと地面に置き、私は川に足を踏み入れた。水の流れとはなんとも美しいもので、同じ形を留めることのない水流と水しぶきが私を誘う。こんなときに限って思い出すのはたいして興味を持てなかった息子、正樹。そして、退屈で、変に真面目で、子供っぽい私の旦那、治のことばかりだった。きっとあの二人と園子ちゃんの三人で、新しい家庭を築いてくれるだろう。今度こそ、家族らしい家族というものになってくれるだろう。そのとき、私の存在は三人の記憶から消されているだろうか?大きくなった正樹は、実の母親を覚えているだろうか?もうすぐ私は、死ぬだろう。死の間際、その瞬間というのは、
限りない幸福の瞬間だと思い続けてきた。しがらみからの解放。全てに終わりを告げることができる瞬間。私は金色の蝶をそっと握り締め、二度と呼吸もできないように、川に身を沈めた。

ぐるぐる 。
廻るよ廻るよ


ねじまき。
まわるよめぐるよ

冬を染めた五線譜に
どうしようもなく恋をしている

廻り遭えたなら、遮光。