夜とネオンの灯りに彩られた街を歩く。辺りには数えきれないほどの 黒い服を身に纏った男たち が立っていた。黒い服の連中は揃って体付きがしっかりとしており、仮に私が彼らに殴りかかったとしてもふらつくことすらなさそうに見えた。しかし彼らは大袈裟に頬を緩め、薄気味の悪い表情で通行人に声を掛けていた。
「キャバクラのお探しはないですか?」右耳がそんな声を拾った。目を上げると反吐が出そうなほどにこやかに笑う男が立っていた。私は速やかに視線を落とし、全てを視界の隅に追いやるようにしながら歩いた。
私は他者とコミュニケーションを交わすことが得意ではないため、とにかくこの黒い服の男たちから逃げたかった。「ねぇ、そんなに急いでどちらまで?」今度は左耳がその声を拾った。声の種類は明らかに今までのそれらとは違い、艶やかでか細いものだった。引力か何かに引っ張られるように視線を声の主の足元へ向けると、そこには赤い着物が映り込んだ。着物にはいくつもの小さな黒い花紋が入っていた。徐々に視線を上げていく。次に目に映ったのは、透き通るような白さの女性の顔だった。決して化粧は華美ではなく、透明な肌に際立つ真っ赤な唇が印象的だった。頭上には黒光りする髪が丸く束ねられており、赤い簪(かんざし)がちょこんと刺してあった。細い首すじには薄く筋が浮いており、少しでも首を絞めようものならこの女は目を瞑り、苦しみ、あっという間に天国へでも行ってしまいそうだった。女の口が動く。「ねぇ、殿方。黒い花をその白い瞳に映したことがあって?」「え?」聞き返すと女は背中を向け、雑居ビルに消えていった。私はまるで幻覚でも見たように暫く呆然としてしまった。「お兄さん、抜きのご利用は?ばっちりな子揃ってますよ!」
次、微かに耳に入り込んだものは、雑音だった。
家に帰ると居間のテーブルの上にはラップに包まれた料理があった。これは誰が用意したものなのか。自分以外の誰かが用意してくれたものならどんなによいことだろう。無論これは、家を出る前に自分で作っておいた炒め物だ。ジャーの中で孤独死してしまいそうな冷たいご飯を茶碗に盛り、点けたテレビを背にしてモソモソと晩飯を食べる。すると後方からあの声が聞こえた「ねぇ、殿方。黒い花をその白い瞳に映したことがあって?」後ろを振り返る。目に映ったのはしょうもない娯楽番組だった。タレント達が笑い転げている様が見える。確かに私はあの声を聞いたような気がしたのだが。収まらぬ鳥肌を抱え、晩飯を済ませた。
窓際に干してあった下着を手に取る。洗濯バサミがカチッと鳴く。浴室の電気を付け、中に入る。レバーを右に捻ると、シャワーがザァザァと音を立てて流れ始めた。今日は不思議なことが起きる日だ。二度もわけのわからない言葉を耳にしたけれど、一体あれは何だったのか。自分が疲れてるだけなのだろうか。考え始めるとキリが無かった。今日はもう寝よう。シャワーを浴び終え、部屋干しばかりでがさがさになったタオルで体を拭きあげる。タオルは所々に水分を吸収して柔らかくなった。けれど、どうして柔らかくなったものが重くなってるのか。私には理解し難い。考え始めると止まらないので、クスリをキメて、下着を履くとそのままベッドへ倒れ込んだ。
「ねぇ、殿方。黒い花をその白い瞳に映したことがあって?」夢の中に、またあの女が出てきた。「あなたは、誰?」「なぜ、僕のところに来るの?」何を聞いても女はただ笑みを浮かべるだけだった。(黒い花について、訊くべきだろうか)そう思った瞬間、女は囁くかのように艶やかに「チョコレイトコスモス」とだけ呟いた。
目を覚ますと、空は赤く染まっていた。掛け時計は5時を指していた。外は朝焼けかと思われたが、携帯には会社の上司と同期からの不在着信が8件とPとMの文字が。あぁ、やってしまった。今から会社に行く気にもなれないし、どうしたものか。悩みながらも外出する支度をしていた自分を見ると、どうやらこの部屋の外には出るつもりらしい。本能とは時に恐ろしいもので、考えるより先に行動を始めていることがあるものだ。靴を履き、街に足を向ける。段々と視界にはネオンと黒い服の男たちが映り込み始める。足が止まったその場所は、昨夜、あの女に出会った雑居ビルの前だった。(そういえばこのビル、入ったこともないな)ビルの中に入ると、
奥に一つ灯りの点った店があった。店の前には種類様々な花が立派に活けられており、看板には大きな文字で「花」とだけ書かれていた。店を覗き込むと、奥から一人の女が出てきた。「何かお探しですか?」咄嗟に口を吐いたのはこれしかなかった。「黒い花を、いえ、チョコレイトコスモスを探しているのですが」女は驚いたような顔で「チョコレイトコスモス、ですか?」と再度確認をとった。
「この花は半耐寒性を持っているけれど、放っておいても日本の冬の寒さに耐えきれるほどは強くないんです。決して一人で放っておいたりしないでくださいね。」花屋のお姉さんが丁寧に教えてくれていたが、特に育てるつもりも無い私には到底、無関心の沙汰であった。私はただ、この花を手にすることによって、あの女が言ったようにこの瞳に映すことによって、何かわかるかもしれないと思っただけなのだ。一通りお姉さんの話を聞き終えると、店を出てビルの前であの女の声を聞いた。「あら、チョコレイトコスモスなんか買ってどうするおつもり?」振り返るとビルの中には煙管を吹かしている着物姿の女が立っていた。「あなたは一体誰?」この前と同じ質問をしたが、やはり女は返事をせず、ただ笑みを浮かべるだけだった。笑みを浮かべていた女は急に真剣な眼差しになり、こちらに迫ってきた。足が、いや、体が動かない。知っている、この感覚。金縛りだ。女は段々に距離を詰めてくる。互いの鼻が触れ合いそうな距離で女は歩みを止めた。そして私の目を見て一言「待ってます」とだけ告げるとまた姿を消した。
帰り道は真っ暗闇だった。妙に冷える夜だったが、星がゴウゴウと燃えているのがよく分かる夜でもあった。家に着くと、鍵が開いていた。「やっぱり」
この先はもう手に取るようにわかる。居間と廊下を隔てるドアーがガチャリと音を立てて開いた。「お帰りなさいませ」「あぁ、ただいま」居間はフローリングだったはずだが、いつの間にか和室になっており、ベランダへ通じるドアーには障子が張られており、隅には行燈が、部屋の中央には一枚の白い布団と、二つの「黒い枕」が用意されているのが目に映った。「なるほどな。」女は一瞬、不思議そうな表情を見せたが、すぐに私の元へやってきて頭の中で何度も繰り返したあの台詞を囁いた。「ねぇ、殿方。黒い花をその白い瞳に映したことがあって?」赤い着物に映える黒い花紋が目に映った。「あぁ、今目の前で咲いてるさ」
私は女を事後そのまま朝まで抱き締めていたつもりだったが、目を覚ますと女は消えていた。居間にはいつもの見慣れた空間が拡がっているだけだったが、微かに煙管を吸った匂いが残っていた。居間を抜け玄関へ出ると、玄関いっぱいに真っ赤な花が敷き詰められており、その中央にはちょこんと小さく、一輪のチョコレイトコスモスが置かれていた。私はそれをすくい上げると、片付けることなく仕事へ向かった。
夜、仕事が終わると私は急いで帰路についた。家に帰り、玄関を開けると女が立っていた。女は真っ赤な着物を翻してこちらを振り向くと「また来てくれはったんですか?」と艶やかな表情を私に突き刺してきた。「いや、黒い花が見たくなったんだ」そう告げると女は私の手を引いて居間へと向かった。私は見逃さなかった。その瞬間、女の頬が一瞬桃色に染められていたことを。朝になればまた女は消えて、この部屋も元に戻るだろう。意識の中でしか会うことの無い私と彼女は、夜の間しか繋がれない。叶うことも進展することも、叶わないことも後退することもない恋事。それでもいいから、今夜も貴女を、抱き締めていたい。「ねぇ、殿方。遊女をその白い瞳に映したことがあって?」