発熱外来の医師の診立て通り、発症から三日を経て熱は平熱に戻った。
日に日に倦怠感も薄らぎ、順調に"療養"期間を終える。
今のところ嗅覚障害のような後遺症の自覚症状は無い。
このところ持病のようになっている"副鼻腔炎"のような症状は残ったものの、常備薬の服用で快方に向かっている。
もちろん、この先何か異変が起きるかも知れない。
だが今は、"軽症"で済んだことを素直に喜びたいと思う。
そして「withコロナ」である。
巷で喧伝されている通り、再度の感染もあり得るのだろう。
引き続き感染予防を怠ることなく、基礎疾患と無縁の生活を送れるよう健康管理に努めたいと思う。


フィリピン沖で発生した台風2号の通過にともない、3日朝から降り出した雨は次第に強まる風と相まって、夜には嵐の様相を呈した。
翌日の天候回復を見越して早目に就寝するが、枕元に置いたスマホが頻繁に着信を伝える。
"避難警報"である。
近くに一級河川があるため、僕の居住地周辺では危機的状況が迫っている場所も少なくないようだった。
幸いにも、今までこうした緊急事態に直に巻き込まれたことがない。
目と鼻の先で起きているコトながら、今回も免れることが濃厚な気配だった。
ふと思う。
─オレはこのままでいいんだろうか?
こうした緊急時の判断基準や具体的行動を、いまだ咄嗟に思い浮かべることができない。
いつまで経っても何処か"他人事"になってしまう自分を訝りながら、いつしか眠りについたようだった。

天候の回復した翌日の午後、"療養解除"ということで、六日振りにウォーキングに出る。
夜半に"線状降水帯"となった雨雲は豪雨となり、集中的に大量の雨を降らし続けたようだった。
だが、町中に土砂崩れのような異変は見当たらない。
所々の側溝付近に、大量の草木の枝葉が轍を作っているだけだった。
風雨に荒らされた庭を片付けているのだろうか?
各戸の庭に家人の姿が目立つが、日常の手入れをしているようにしか映らない。
だが、···
少しアテが外れたような気分で歩を進め川沿いに辿り着くと、そこには激変した光景が広がっていた。
一瞬、前夜の緊迫した"警報"が耳元に甦る。
眼前の川幅はいつもの二倍近くに拡がっていた。
東京側の河川敷に展開するショート・コースは、完全に冠水状態だ。
徐々に水はひいているようだが、一時は、堤下まで増水していたであろうことが見て取れた。
遠目ながら、対岸のゴルフ・コースも同様であることが分かる。
やはり前夜の"警報"は只事ではなかったのだ。


遊歩道から堤下に続く石段に腰掛け、いつもよりスケールを増した川面をぼんやり眺める。
ショート・コース上の水面からわずかに突起した小山に、二人の男の子が自転車を乗り入れていた。
自転車を少し水中に繰り出しては戻って来る。
─大丈夫なのか?
心配がよぎるが水の流れは穏やかそうだった。
突如として出現した"ルール無用"の広大な池に、かなり興奮しているように見えた。
─芝はどうなんだろう?
水没しているフェアウェイの状態が気になった。
付近にコース管理の関係者らしき人影は見当たらない。
"台風一過"の如く晴れ渡った空からは、晩夏のような陽射しが降り注いでいる。
「バカだなぁ··· 」
思わず呟いてから頭を振った。
─いや、そうじゃない···
そういう"トシゴロ"なのだと思った。
無邪気だった。
楽しそうだった。
─もうナニも起こりはしない···
二人の他愛も無いじゃれ合いを見ながらそう思った。
そして、不謹慎かも知れないが『平和』というワードが浮かんできた。
交通機関の乱れや浸水被害の状況が頭の片隅にチラつくものの、それが遠い日のことのように思えるほど、どこまでも長閑な光景が眼の前にはあった。
いつしか清々しい気分にさせられていた。

いつの間にか頭の中で、この国の治水事業の歴史を紐解いていた。
僕の乏しい知識ではそのほとんどが想像になってしまうが、試行錯誤を重ね、先人達が乗り越えてきた苦難の数々を思った。
稚拙な言い方しかできないが、それは僕の想像など到底及ばない辛苦と失意の連続だったのだろう。
─その結実の一端をオレは今見ているんだ···
じわじわと立ち上がって来る感動に胸がつまった。
そして、ある考えが頭をもたげてきた。
河川の氾濫を抑制しようと施したあらゆる方策が打ち負かされるうち、いつしか折り合いをつける方向に転換していったのではないか?
『制御』あるいは『支配』から『共生』というエポックメイキングな考え方の転換があったのではないかと思った。
飛躍しているかも知れないが、その考えは、僕の中に湧き起こった感動を増幅させるものだった。
なおも思索を続けるうち気がついた。
─護られてたんだ···
多くの先人達の偉業によって、僕は今日、『平和』を享受することができたのだと思った。
─今頃こんなことに気づくなんて···
自分の愚かしさが恨めしかった。

─オレは悪運が強い···
そんなことを時々思う。
今回も少しばかり思ったような気がする。
だが、本当にそうなのか?
これまでそう思ってきた局面···
実は自分が気づかぬだけで、何者かの助けがあったのではないか?
─どこまでも厄介だ···
僕のこうした傲慢な性根は直らないのかも知れない。
そして、···
こうした人間は、おそらく"頓死"のような無様な最期を迎えるのだろうと思った。
もう、何事かを成し遂げることなどただの幻想に過ぎないのだろう。
だが、···
─まだ終わりじゃない···
だとすれば、残された時間に感謝しつつ、与えられた生命の歓びを味わい尽くすことが"使命"のようなことなんじゃないのか?

まるで長い休暇の終わりを思わせる風景の中で、そんなことを思った。