町中のソメイヨシノが盛りを過ぎ、花弁とともにその蘂を散らし始めた頃···
心の有り様がようやく落ち着き始めた4月2日のことだった。
坂本龍一の訃報が届く。

3月28日、入院中の都内の病院で永眠。
享年71。
死因は伝えられていないが、2020年に公表された"直腸がん"に由来するものと思われる。
2014年に"中咽頭癌"が発見されて以来、手術、入退院を繰り返す長きに渡る闘病生活だったが、最期まで音楽活動への情熱が尽きることはなかった。
この人の生み出した音楽で我々がどれだけ救われたか?
今はただ···
最大限の感謝を捧げるとともに、安らかなご冥福をお祈りしたい。


この人のことを知ったのは高校在学中だったと思う。
音楽に目ざとい同級生達が、「藝大にスゴい奴がいる」と噂していた。
だが、"キーボード奏者"ということだけで、何がどうスゴいのか一向に正体は分からなかった。
しばらくして、渡辺香津美の『Olive's Step』にキーボード奏者としてクレジットされているのを見つける。
今思えば、アルバム全体のサウンドに、持ち前の音作りで少なからぬ影響を与えていたのかも知れない。
だが、僕の期待感が肥大していたせいなのか?
特別なオリジナリティを感じさせる存在とは思えなかった。
大方のスタジオ・ミュージシャンと同様、テクニックを駆使してメインをサポートするプレーヤーの一人としか映らなかったのだ。

だが、そのイメージはすぐに覆されることになる。
"イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)"の一員として、そう時を置くことなく、あまりにも衝撃的で印象深い存在として再来したのだった。


デヴューアルバムとなる『イエロー・マジック・オーケストラ』は、今振り返っても、全くスキの見当たらない完璧な一枚に思える。
革新的かつ野心的なこのディスクは、一聴にして僕の心を鷲掴みにした。
収録されているどの楽曲も甲乙付けがたいが、とりわけ坂本龍一の手による『イエロー・マジック(東風)』が印象深かった。

大陸を勇壮と渡ってくる風に乗って、東方から未知のナニかがやって来る。
「Tong Poo」だと云う···
声の主の優しげな誘いに従って身をあずけていると、どうだろう?
あたりに立ち籠めていた閉塞感は、いつの間にか霧消している。
そして、···
新たな世界が眼の前に拡がっていた···

そんな光景を想起させた。

同時に···
何故だろう?
知らず知らずのうちに、胸の奥底から静かに感動が立ち上がってくる。

─そうなんだ···
『BEHIND THE MASK』、『千のナイフ』、『Merry Christmas Mr.Lawrence』···e.t.c.
この人の紡ぎ出す旋律には、僕の心の琴線を震わすナニかが宿っている。

今回、改めてこの人の来歴を調べるうち、その理由が少しだけ分かったような気がした。
大学在学中に学んだという"民族音楽学"にヒントが隠されているんじゃないか?
坂本龍一が、師である小泉文夫から何を学んだのかは知らない。
だが民族音楽とは、その土地固有の風土や文化の中から生まれ伝承されてきた音楽だと云う。
だとすれば、同じ"日本"という国土で生まれ育った我々には、すでに共通する固有の音楽性があって然るべきはず。
いつの間にかこの身に深く刷り込まれたそうした感性が、坂本龍一の紡ぎ出す旋律に呼応し共鳴しているのではないか?
そんな風に思えた。
坂本龍一は自らの音楽表現で、僕の中に潜む"ナショナル・アイデンティティ"の一端を知らしめたのかも知れない。
世間一般に云われるジャンルやスタイルの枠を度外視した"音楽"の魅力を、僕に教えてくれた唯一無二の表現者であったのだと思う。


「Ars longa,vita brevis(芸術は長く、人生は短し)」

生前、坂本龍一が口癖のようにそらんじていた言葉だと云う。
初めこの言葉を眼にした時、「何事かを成し遂げるには、人生はあまりにも短い」の意だと思っていた。
つまり「少年老い易く学成り難し」と同意だと···
だが、別の解釈もあるようだ。
「人生は短いが、芸術は永遠に残る」···
坂本龍一がどちらの意味合いでこの言葉を口にしていたのかは分からない。
だが、ここには前者の意で思ったことを記しておこうと思う。

どんなに"高み"に到達しようとも、研鑽を続ける者にはさらなる"高み"が眼前に聳えるのだろう。
その時、落胆や焦燥に囚われるのかも知れない。
だが暫し逡巡したとしても、自らを奮い起たせ、あるいは好奇心のおもむくまま、また一歩を踏み出すに違いない。
坂本龍一が臨場でかの言葉を思い浮かべていたとしたら、それは、彼が最期の最期まで"高み"を目指し続けたことの証しではないだろうか?

そんな妄想が頭の中を駆け巡った。

"生命"の有難味がようやく分かってきた今日この頃。
凡庸で自堕落な自分では、口にすること自体憚られるのは分かっている。
だが、···
この人のような生き方がしたい。
命が尽きるその時まで一歩を踏み出そうとしていたい。
このことが今、僕の"願い"になった。

合掌。