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妙に暗く、混雑したカフェの中だった。
奥まった席にいる僕の傍らには、顔見知りのはずなのだが、どうしても名前が思い出せない若い男がいる。
どうやら、仕事絡みの集まりに同行するよう懇願されてるらしいのだが、彼の言葉はさっぱり頭に入ってこない。
出入口近くの席にいるMのことが気になっていた。
Mはこちらに目線を送るでもなく、女友達二人とおしゃべりに興じている。
屈託のない笑顔が眩しかった。
何故か疎外感を感じた僕は、苛立ち紛れに同行を承諾し、男と一緒に席を立つ。
僕がふてくされ気味に、Mの脇を通り抜けようとした時だった。
「やっぱり行かなきゃダメなの? 」
残念そうにMが見上げている。
「ああ、しょうがないよ··· 」
「冷たいのね。」
Mの傍らの女友達が、僕を問い詰めるように睨んだ。
「だいじょうぶ大丈夫。
イヴはゆっくり過ごせるから··· 」
Mは取りなすように女友達に言うと、軽くウィンクして僕を促した。
─ゴメン···
僕は目線で言うと、先に店を出た男のあとを追った。
─そうか、もうすぐクリスマスなんだ。
その時、ようやく気がついた。
─オレは何を勘違いしてるんだろう?
 悪いのはオレの方じゃないか···
さっき抱いた疎外感が恥ずかしかった。
歩を進める道は、暗く寒かった···

目が覚めた。
ベッドの上で天井を見上げながら思った。
─全然変わってないなぁ···
 自分のことばかりで、彼女の気持ちが全く分かってない。
三十年以上の時を隔て、Mと言葉を交わせた嬉しさも束の間、苦々しい思いばかりが胸の奥底から込み上げてくる。
朝方の静かな部屋の中で、冷え冷えとした空気が身体を包み込んでいた。

Mと会ったのは三十五年近く前のことだ。
僕が初めて出向した会社の事務職だった。
部署は違ったが、僕の部署の同僚のもとに度々顔を見せ、何度か言葉を交わすうち親しくなった。
後から思えばその頃から、明るく気さくな彼女に、少なからぬ好意を抱いていたんだと思う。
彼女の小気味良く響く声は、出向先での僕の緊張を和らげてくれていた。
僕らにはすでに、半ば将来を約束した相手がいた。
そのことが、若い男女間にありがちな意識の垣根を作ることなく、僕らは急速に親密になっていった。

三月ほど経ったある日···
僕らは突発的に、そして軽々しく一線を越えてしまう。
その日を境に、僕らは激流に翻弄されるまま、急速に深みにはまっていった。
最初あった、お互いのパートナーへの遠慮も次第になくなり、Mと過ごす時間は限りなく長くなっていった。
仕事の合間をぬっては、寸暇を惜しむように愛し合い、別れた後、何喰わぬ顔でパートナーとも関係を続ける···
そんな歪んだ不倫のような関係を半年近く続けた頃には、僕はもう、Mとの未来ばかりを妄想するようになっていた。
パートナーには、関係を解消すべく
何度か別れ話を切り出したが、上手くいかなかった。
Mへの思いを白状しなかったからだろう。
僕のパートナーは、すでにMとの関係に気づいていたかも知れない。
だが、自分からそのことを口にはしたくなかった。
『恩義』のようなものを感じていた。
大学を辞め将来に絶望を感じていた頃、パートナーに、精神的に助けられたという思いがあった。
自分の身勝手な裏切りで、感情的な言葉を浴びせられるのが嫌だっただけかも知れない。
今にして思えば、あまりに愚かで空恐ろしい。
偽ることで、更に裏切りを重ねてゆく···
だが、その程度の分別もつかないほど、絶望的に情けない自分だった。

何の進展も見ぬまま、時間ばかりが過ぎていった···

ある晩、パートナーのアパートにいた僕に電話が入った。
Mからだった。
時計を確認すると22:00近く···
何度か、別れを惜しむように寄り添ったことがある、Mの自宅近くの公園まで来てほしいと言う。
僕はひどく動揺していた。
─いつココの電話番号を教えたんだ?
そんな、どうでもいいことを考えていた。
電話を取り次いだパートナーの、初めて見る、刺すような鋭い視線にたじろいでいた。
その後、
「時間が遅いので··· 」
といったような理由で断ったのは覚えてるが、実際に、Mやパートナーとどんなやり取りをしたのかは思い出せない。
動揺がひどかったせいもあるが、修羅場を避けようと、説得力の無い卑怯な弁明に終始したであろう自分を、忘れ去ろうとしたためではなかろうか?

翌日···
出社すると、Mに会社近くのデパートのカフェに呼び出された。
あまり馴染みのない店だったが、Mはすぐに見つかった。
注文も早々に、前の晩の言い訳をしようとする僕に、かぶせるようにMが口を開いた。
「もう、終わりにしたいの··· 」
初めて聴く沈んだ声だった。
全く予期していない言葉だった。
僕は何か言っただろうか?
どうしても思い出せない···
「フられちゃったねぇ··· 」
ようやくその言葉を絞り出した。
卑屈に聞こえたかも知れない。
Mは一瞬強い目線を僕に向けると、怒ったような口調で言った。
「フられたのは私の方だよ!
来てくれたら··· 」
うつ向き、両手で顔を覆った。
その後、どうしたか?···
やはり思い出せない。
ただ、両手で顔を覆ったまま座っているMの姿が、寂しげに小さく浮かんでくるだけだ。
僕は少し怒っていたかも知れない。
前の晩の、唐突で理不尽なMの行動を理解できないでいた。

Mの最期の言葉の意味を理解したのは、ずいぶん後になってからだった。
だがそれすら、想像の世界の話だ。
僕が結婚して初めて迎えた正月···
Mから出産を告げる年賀状が届いた。
Mと最期に言葉を交わしてからどうしていたのか?
今となっては全く思い出せないが、Mとできるだけ距離を置き、忘れようとしていたのは確かだ。
年賀状を見て、久しぶりにあの晩のことが思い出された。
あの時···
Mのパートナーに僕らの関係を嗅ぎつけられたのではないか?
そして、『結婚』というようなことを迫られたのでは?
Mは僕の真意を確かめようと、無茶な呼び出しを仕掛けたのではなかろうか?
そうだとすれば、僕がしたことは何だ?
─Mを失望させただけじゃないか···
痛恨の思いが込み上げていた。
だが、あまりに遅すぎる。
僕らはもう遠く離れ、後戻りできない場所に来てしまっていた。
悔やんでも取り返しのつかない、僕の大失敗だと思った。
─忘れ去るしかない···
年賀状に赤ん坊を抱いて写っているMの表情は、笑っているはずなのに、僕には寂しげにしか見えなかった。

ここ数日、Mとのことを思い出していた。
妻子と離別した後、一瞬思い出しはしたが、それにしても二十年近くになる。
不思議なことに、『懐かしい』という感覚はなかった。
─終わってないんだなぁ···
『思い出』にし切れていない感じがした。
あれほど忘れようと努めてきたのに、心の奥底に澱んでいるだけで、何かの拍子に浮かび上がってくる。
後悔の念ばかりを連れて来る厄介な奴···
ユーミンを聴いていたせいだろうか?
そして、今回は別の考えが浮かんできた。
あの別れの席で、僕が、Mへの思いを切々と訴えていたらどうだったろう?
いや、その後も、毎日のように言い募っていたらどうだったろうか?
振り返ると、Mに、言葉を尽くして思いを伝えたことはなかった···
─まだチャンスは残されてたかも?
どうしてオレはいつも、肝心なことを伝え切らないんだろう···
それは、時間の風化によって産み出された、都合の良い妄想かも知れない。
それでも、自分のダメさ加減に致命的な一撃を加えたのは確かだった。

今回も、後悔の念に囚われ、自己嫌悪の中に埋没しそうだった。
だが、ブログを起こしている最中フッと思った。
─何で別れたんだろう?
決して超えられないハードルじゃなかったのに···
パートナーとの別れ話も、Mに期限を区切られれば、必ず履行したろう。
少しの猶予なら、Mも許してくれたに違いない。
─なんで、あんなに急いだのか?
もっと結論を引き延ばすべきだった。
すべては、自分の子供じみた『独りよがり』のせいだと思った。
夢の中の一事を思い返しても分かる。
間違いなく、これが僕の最大のウィークポイントだ。

変わりたい。
『独りよがり』を克服したい。
僕が変われた時、Mとのことは僕の中で、かけがえのないホロ苦く美しい思い出に昇華するのだろう。
それは、ほぼ間違いないことのように思える。

─ありがとう···
そんな思いが、初めて浮かんできた。

僕が成熟して、Mとのことを思い出に変えた時、冒頭の夢のシナリオは、次のように差し替えられているだろう···

「やっぱり無理だな。」
「どうしてもですか? 」
「ああ···
ヨロシク伝えておいてよ。」
若い男はなおも恨めしげに見ていたが、それで諦めたようだった。
軽く一礼すると、足早に店を出て行った。
僕は男を見送ると、タバコを灰皿に押しつけ席を立った。
そして、先ほどからこちらを気にしているMの方に、ゆっくりと近づいていった。
「行かないの? 大丈夫? 」
隣の席に腰掛けた僕に、Mが心配そうに顔を寄せてくる。
「ああ··· 」
僕は一息タメて続けた。
「お前と一緒にいることより、大事なことなんてないさ。」
Mは少しうつ向き、恥ずかしげに上目遣いで僕を見た。
─コレだよ、これ···
オレはコレが見たいがために、生きてるんだ。
フッと、さっき口をついた気障なセリフを思い返し、少し身震いがきた。
そのことを気取られぬよう、努めて明るい調子で僕は言った。
「さて、これからどうしよう? 」