こんにちは!
本日も京都検定3級基礎編です! 
    
歴代の京都の治安維持関連組織
◯平安時代
・刑部省(ぎょうぶしょう)
・京職(きょうしき)→検非違使(けびいし)に変化

◯鎌倉時代
・篝屋(かがりや) 
 洛中48箇所に設置された番屋。
篝火を焚いていたところからくる。


・六波羅探題(ろくはらたんだい)

◯室町時代
侍所(さむらいどころ)

◯江戸時代
京都所司代→(幕末)京都守護職
※幕末には所司代の無力さが指摘され、京都守護職がその上位機関として設置された。


◯京都守護職とは、


幕府は権威低下し、京都では尊王攘夷派過激志士が集まり、治安が悪化していた。

幕府は元々、京都の治安維持を京都所司代・京都町奉行に任せていたが、過激派の暴動が横行し、所司代では防ぎきれないと判断した。幕府は京都市中(洛中)の治安維持や御所・二条城の警備を目的として、新たな組織を設置した。


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文久2年閏8月1日(1862年9月24日)、会津藩主・松平容保が就任した。彼は本陣を金戒光明寺に置き、藩兵1,000人を京都に常駐させ、1年ごとに交替させた。容保は最初、徳川慶喜や松平春嶽からの就任要請を断り続けていた。藩財政は浦賀や蝦夷地の警備に費やされ、窮乏状態であり、家臣たちも就任に反対していた。しかし、春嶽は会津藩祖・保科正之の家訓を引き合いに出し、ついに容保は承諾した。その際、任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸で肩を抱き合って慟哭した。



家訓の第1条は、「徳川家に忠勤、忠義を尽くさなければならない」という正之の気持ちが書かれていて、将軍家へ後世の子孫まで絶対的な忠誠を誓わせています。




京都守護職は、京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を統括し、京都見廻組も支配下に置いた。しかし、それでも手が回りきらない状況だったため、非正規部隊として新選組を守護職御預かりとして加え、治安の維持に当たらせた。


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