セーヤンの備忘録001 ② 入院3日目・4日目
2011-08-31 10:31:10

入院した時の7月と8月のカレンダーを載せたくて試行錯誤するのですが、保存が出来ずに『全員に公開』が出来ません?!


 この原因は、ワードの原稿をコピーして、直接ブログに貼り付けたのが失敗の元らしく、今、メモ帳にコピーして、更にグロブに貼り付ける作業をしています。手抜き作業が、原因とは、知らぬ事とは言え、夏休み最後の孫の守りをした位で、2・3日パソコンから遠ざかったので耄碌したとは情けない。


 残念ながら写真を載せることが出来ない理由で、ブログを止める事は致しません。もう少しで、写真の掲載が出来るようになりましょう!

パソコンのテクニックを覚えるのもリハビリの内。


 入院記録の3日目から4日目は、未だ文字だけでご容赦!


 3日目 7月8日(金曜日)
 
                        
3日目までは点滴で寝たきりの老人と思えば良い。
7時30分~8時00まで朝食の時間にかかる。
トイレがしたい。ナースコールのボタンを押す。ブラジルのヘルパーさんが元気よく、『ダァ~レ、ドナタデスカー。』と廊下を走り込んでくる。

            
広島日赤原爆病院に胆嚢摘出で入院していたばかりである。原爆病院はナースコールで通話ができたのに、この病院は古いなと思ったりしていた。ベッドから手を挙げて、呼んだのは此処だと知らせる。トイレだ、と知らせる。

『トッイレッ?ウンコォー、シッコォー!』
なるほど、トイレじゃ判らんか、はっきり云うべし。
同室の教養人に余計な遠慮は無用。
『ウンコじゃ~!』と叫ぶ。


叫ぶといっても(ウーコリャー)と蚊の泣くような声しか出てはいないのだ。『OK、チョット待ってね。』と甲斐甲斐しく動き応援を求めて僕を処置する。
半身不随だから凄く重いのだそうだ。 

                     
入院するまえの体重は鷺沼寮の体重計で81kg。
『重タイネー、小錦ミタイネー』とカーテンを引き回し、準備完了。
『オワッタラ教エテネー。』と病室の外で待機。

ものの2~3分したら『マダー』の声。カクレンボしているンデネーノと云いたくなる。出るものもヒッコムと云うものだ。
『コチトラァ生まれて初めてオマルってのを尻にすけてウンウンと頑張っているものを、藪から棒に『マダー』ってのは無しだ。』


『エイッ、そんなに急かせるんなら後でやるよ。ナニッ高気圧酸素の時間だと、なんだいそれは?』っと、江戸っ子デェのテンポで進めばいいんだが、意味は同じでもレロレロの口調でしか喋れない。


あーっ!マドろっこしいっ。『ウンコーナイヨー!』の合図で看護婦、準看護婦、ヘルパーさんがドドッと集まる。ベッドからストレッチャーに移すのだ。一体何処へ連れていくのだ。クネクネ曲がった廊下が長く感じる。

『高気圧酸素治療室』、名前は厳めしいが、特別変わった部屋ではない。
患者をドラムカンのような中に収めて圧力を少しかける。
90分間だと云う。長い!最初本人には何の説明も無いから、狭いなかで、ただジッとしていた。朝9時のことだ。

長い長い90分が終わり病室に帰ってきた。 
『大変だったですね。ご苦労さま。お疲れさま』と病室の人達は親切でアットホームだ。『どうだった?ですか』の問いかけに、蚊のなくような声でしか返事が出来ない。


「ドラムのなかで静かに時の過ぎるのを待ったのですが、長かったですよ」ってヨレヨレ言葉で喋ると『血行を良くするために圧力をかけるのですですから、なかで暴れなければ駄目ですよ』と教えてくれる。

よしっ!明日からは右手、右足、力がはいらぬからったってリキミアゲテ見せるぞ!と、決意する。


 3日目からはベッドをクルクルッとハンドルを回して起こしてくれる。
点滴だけでなく、食事に慣らす。スープとか お粥に代わっていくのだ。

この起き上がるって作業、じっとしてスープを飲む作業が堪える、実にコタエる。


左手でスプーンを持って口に運ぶのだが、左肩から腰にかけて筋が吊るような痛みがして、耐えられない。『うわー、起きて食べさせてくれるのか』と喜んだのは、つかの間である。


右に左に身体が倒れそうになる。                        
スープを口のなかに掻き込んで、頼むからベッドを倒してくれ、元に返してくれの心境だ。


 内科医の根元先生は若くてとても親切そうな人である。
妻との話を聞いていると病名は脳梗塞(のうこうそく)、左耳のところの血管が塞がっているらしい。


恥ずかしい限りだが「脳梗塞」と云っても、どんな病気か判らない。「のうこうそく」と読むのだ。恥ずかしながら知らない!初めて聞く病名だから。脳の病気に懸かるなんて思いもしなかったし、脳溢血に成るにしても10年早い歳だと思っていた。


《知らぬが仏で、チュウブ・中風と聞いていたらキッと根暗になって居ただろう!子供の頃に脳卒中の小父さんを見ていたので。病気には為らないの過信があった》


根元医師はMRI(磁気共鳴断層装置)の写真を観ながら妻に説明している。患者は寝ていても耳は聞こえるのだ!喋れないのだが。
脳溢血、クモ膜下出血等は高血圧で血管が破れる脳内出血、それに対して脳梗塞、脳血栓は血管が詰まって脳細胞が壊死するらしい。


詰まり方、詰まる箇所、大きさ等によって マヒする病状が違ってくるのだという。脳梗塞は手術をしないで、血行を良くしリハビリテーションで治すのだそうだ。


『糖尿病を患ったことがありますね、食事には考慮しておきましょう』と病室を静かに出ていった。


 この時期から大瀧理学療法士がきてベッドの上で足や手を曲げ伸ばしてリハビリテーションをしていただいたようだ。『この写真から判断すると右手の回復は無理があるとして右足は歩けるようにします。リハビリが苦しいかも知りませんが、信じて頑張って着いて来て下さい。』


『大瀧先生が就いてくれたよ。管さん、ツイてるね』と同室の誰かが云ってくれる。大瀧氏は絶大な信用、信頼を受けているらしい。腕の良い先生なら安心だなぁと思ったのが記憶にあるが、すぐ眠くなってしまった。


思えば皆さんにお世話になったものだ。                    
山本テレーザ ママ、太田セシリア小母さん、丸よしえちゃん、黒田さんetc.と思い出すのはカタコトの日本語でお世話になったヘルパーさん達ばかり。


大滝先生、井上(昭一)先生、池田(女)先生、井上薫先生etc.のリハビリ室の方は覚えている。なのに、一番お世話を懸けた言語教室の先生は何と云われたかな?思いだせない。

(この方は下竹佳代子先生、思い出したのが、1年後。横浜病院の医療事務の加藤氏に電話で確認する。勿論、まだ勤められている、との事。)
看護婦長、途中で交代した看護婦長、看護婦さん達、準看護婦さん、顔は思い出しても名前はどうしても駄目だ。


一番肝心な内科の先生、二人とも忘れている。
忘れはしないと思っている人達の名前はメモしなかったのだ。
(最初が根元医師。次の担当医が沼沢医師、妻の介護日誌から判る。)


妻の「介護日誌」より抜粋

朝、東急ストアの開店を待ってリハビリのためのトレーニングシャツ靴等、買い物して病院へ。

午前中 高圧酸素に1時間以上入り中が暑い様子。      
ハザマの労務安全部長 田村氏見舞いに来てくださる。
午後、加代子さんも洗濯物やら私に差し入れやら持ってきてくれる。
オシッコの管を外される。夕方、西村さん お見舞に寄っださる。トレーニングは来週からとの事。ベッドに一日2回ほど座って15分位居るようにするが午後7時の時はしんどいようで5~6分だった。
主人 良く寝るので 8時頃 病院を出る。 
(以前、田村悦郭氏は間組広島支店の事務部長で懇意にして頂いていた。)




 3 ベッドに起きて粥 高気圧酸素室


入院6日目の月曜日からリハビリテーション室に降りた。
まだ、みんな見舞いにくるのをためらっている様子だ。病気が病気だ。
意識がなかったらどうしょうもない。意識はハッキリ戻ったと思った、が大間違いである。


言語のリハビリに就いてびっくりしたこともあったが、頬(ほほ)の痺れ(しびれ)も取れて、トレーナーの介添え付きでどうにか歩けるようになる。順調だ。


 3日目 7月8日(金曜日) 追加


3日目、田村悦郭間組本店労務安全部長が見舞いに来てくれる。
最初の日にきたってのは、勘違いだ。広島で一緒だったからといってもオール・ハザマの労安部長の身、本当にご迷惑をお掛けした。


本店勤務で各現場の無事故を念じて心の休まる暇もないだろうに、本当に労安部は、大変な部署だ。意識があるので少しは安心してもらったようだ。


西村一成君も来てくれる。彼はゴルフ場の上水、散水、下水処理場等設備のノーハウに詳しい。


僕が大規模宅地開発の企画や設計だけでなく、ゴルフ場や野球場を設計するから非常に頼もしく思ってくれて、これからはゴルフ場、リゾート・レジャー施設・スポーツ施設・公園等手を組んで営業しましょうと云ってくれた青山機工の直属の部下で技術課長をやっている。

早く良くなって下さいよ、って残念でたまらぬ様子。
いらぬ迷惑をかけてしまった。それどころか、彼の“期待した仕事の夢”まで潰してしまった様で申し訳なくて堪らない気持ちだ。

 昨日まで点滴と流動食だけだったのが、今日、ベッドを起こしてスープとお粥を飲ませてくれる。さらっ、と書けばそれ迄だが、「ベッドを起こす」のが、ひと苦労。看護婦が足元のハンドルを回すと、少しずつベッドが起きてくる。

油断すると右側にズズッと倒れ落ちそうになる。
左手でベッドの端を持って何とか真っ直ぐに身体を起こす。
スプーンを左手で持って口に入れようとすると、身体がグラッと倒れそうな気がする。その内、左の背筋が筋を引くように痛む。

口に持ってくるだけで背中が痛むなんて信じられますか。
痛い、もう食べるのは良い。もう結構だ。
本当は食べたいのに起きているのがキツイ。

ベッドを元通りに返し、からだを寝せて大きな呼吸をするようでは、文字通りお粥も喉を通らぬと云ったところか。
 「高気圧酸素治療室」に行き出したのも今日からだ。



 4日目 7月9日(土曜日)


今日も9時から「高気圧酸素治療室」に運ばれる。

張り切り過ぎて、大腸の中に溜まった物まで漏らしてしまった。

狭い潜水艦の様なハッチは密閉されている。


90分間の異様な臭いを身体の隅々まで浸透させられて頑張る姿を想像してみるのも厭になる。ドラム缶の蓋を開けられて、“親切な看護婦さん”に綺麗にして貰う時は、オトコ盛りの50台に手が届いた所、サスガに照れくさかった!


でも、治療の為なら、恥も外聞も無かろう!が本音。着替えを済ませ、すっきりした気分で病室へ戻ると、ハザマ環境開発の田坂勝巳部長が奥さんを連れて来ている。恐縮、恐縮。


女房も田坂さんの奥さんとは昨年の伊豆修善寺のシルバーセミナー以来だからお互いに、こんなことで再会するなんてと驚いている。

高橋肇さん夫婦も見舞いに見えた。


息子清司郎が夏休みにお邪魔するのでよろしくお願いしている。
高橋の宗太郎君は国学院大学の三年生で、浪人して一年遅れの息子を就職が有利だと変なところで羨ましがっている。


今年も来年も就職戦線は異常ありだ。
水不足、猛暑、三陸沖地震と天変地異の激しい年でもある。
しかも、バブル崩壊の余震はまだまだ続き就職も間々成らぬとは、学生諸君には可哀相なことではないか。


 大瀧先生より月曜日から、二階のリハビリ室に降りてきて下さい、と云われる。オー、ベッドからまだ起きられないのにと思っていると、車椅子に看護婦が付きますからといわれホッとする。そんなに順調かと思わず疑う。


      

妻の「介護日誌」より抜粋

9時前、病院着。主人は入れ替わり高気圧酸素治療室へ。
午後、部屋を替わる。中略。
夕方、中田さん 自分の病気をおしてタオル、果物等、重いのにいろいろ持って来て下さる。痩せているのに、びっくり。
昨日電話で自分は、ガンが再発して年内持つかどうかと云われ、驚いて言葉に詰まる。
本人と会ってみるといつもと変わらず、気丈さにびっくり。
暮れに卵巣ガンの手術をするが、リンパ 骨まで転移しており今の所、入退院の繰り返し状態とか。
自分の死に向けて冷静に受け止め、着々と準備していく彼女の姿が痛ましい。
  (中略、今夜は中田さんとこに一泊したようだ。)

次回は入院5日目より