本当にこの言葉が当てはまる。一日一日が勝負で、俺達には長期戦はないのだ。

この10年で最も勉強をしなかった1年でした。そろそろエンジンかけなきゃならないのに。

とにかく難しい試験。残りの人生を考えると、費用対効果の点で、受験は疑問だと思うけど、俺にはこの道しか思い浮かびません。

聖なる一日。頑張ります、とすら言えません。受けてきます、なら嘘じゃないか(笑)

絶対的な敗北感を味わった。

今夜はおそらく眠れない。

いい加減に生きてきた俺。

その結果が今の俺。

絶対に言いたくないが情けない。

俺は情けない。

何も出来ない、ただパソコンを打てるだけの情けない俺。

このまま終わってしまうのか。

今日は完膚なきまでに叩きのめされ、敗北感を味わったが、俺はこのまま終わってしまうのか。

それとも今日、7月5日を活かせるのか。

この日をきっかけにできるのか。

おい俺よ。

全て俺次第だ。

俺よ。立ち上がれよ。

自分の頭で考えろよ。

敗北はもうたくさんだ。

楽な道は敗北へと続いていく。

俺よ、頑張れ。

俺よ、頑張れ。

まだ全然動ける。

痛いところはどこにもないし、本当に幸せなことに、悪いとこはどこもない。

171センチで62キロ。元来の甘いもの好きが祟って、糖尿に首を突っ込みつつあるが、今のところは

さほど心配するほどの数値ではない。

毎週末、10キロ走り、2日に一回は500メートル泳ぎ、ジムのスタジオで、バーベルのプログラムに

参加する。そして、毎日のようにジムのルームランナーで約30分早歩き&走り。

健康そのもの。体を動かすのが楽しくて仕方ない。

しかし、体が動かなくなる年齢がすぐそこまで、本当にすぐそこまできている。

信じられないが、今はこんな快調でも、動けなくなるのはあっという間だろう。

 

俺はいつまで、こうして普通に動けるんだろう。

今日、健康ランドの湯に浸かりながら、しみじみ思ってしまった。

俺的には、自分はまだ30代のつもりでいるが、周りから見れば、立派な年齢相応なジジイなんだろう。

いやだ、いやだ。

でも職場でも65歳になる先輩が、多くの女子職員や外部の偉い人とコミュニケーションとりながら、

活き活きと働いてる。

あの先輩ができるんだから、俺も65までは普通にできる、と言うことか。

 

でも絶対に老け込みたくない。若作り、とか言われるのは嫌だから、無理に若い格好はしないけど、

きちんと痩せマッチョ体型を作り、少しでもアンチエイジングと洒落込みたい。

 

頑張ります。

 

 

 

 

フラフラと生き続けた俺だが、そろそろ明日が近づいてきている。

というか、もう明日になってしまっているかも。

ゴールはまだ見えない。

ゴールは一体、どこなのか。

それともすでにコースアウトしてしまっているのか。

人生、全ての人が勝者ではない。

いや、やたら多くのサクセスストーリーを見せつけられてきたけれど、

実際の本当の勝者など、ごくごく一握りに違いない。

そのサクセスストーリーさえも、美化されている可能性もあるし。

 

こんな俺だが、人生を振り返ってもおかしくない時期が来ている。

まだこれから逆転だ、など青臭いことを本気で思っている俺だが、

実際にもう人生の大半はついてしまっている。

今までの人生で、その場その場では、もちろん、自分の最良の選択肢に

◯をつけてきた結果がここにいるわけだから、

決して恥じることはないし、後悔することもないと思う。

それは分かっているし、実際、そうだと思う。

 

まず、生まれてきた時代と国には大感謝だと思う。

戦争も、不平等も感じずに、当たり前のように満ち足りた(笑)生活を

送ることができることについては感謝しかない。

そして、何といっても、両親には最大限の感謝しかない。

何の見返りも求めず、全てを与えてくれた。

本当に尊敬しているし、本当に感謝している。

俺が心から良かったと思っていることは、

母親との最後の言葉が「ありがとう。」だったこと。

そんな小っ恥ずかしい言葉、初めて言ったんだけど、

死の床についていた母親は、俺の顔を見つめていた。

そしてその言葉を放って2週間後、母は逝った。

昼間に愛知の職場で連絡を受け、急いで新幹線で仙台の病院に向かったが、

仙台の少し手前の駅で、訃報の連絡を受けた。

駅から向かうタクシーの運転手に

実は俺、母親が亡くなったんですよ

と話をした。運転手は過剰な反応をするわけでもなく、スルーするわけでもなく、

淡々と対応していたと思う。もちろん、運転手に何かの反応を求めていたわけじゃない。

ただ、誰かに話したかった。母親が亡くなったという歴史的事実に一人で直面しているのが

耐えきれなかった。

 

なぜ、俺はこんなことを書いているのだろう。

今、聞いているのが「戦場のメリークリスマス」だからか。

そういえば、何気なく昼間、YouTubeで久しぶりに「プリンセス プリンセス」を聞いた。

また、さっき何気なく長渕剛の「RUN」を聞いた。

いずれも、怖いものがなかった時の、何をやっても希望を持てた時の曲だ。

 

でも、「青春時代」じゃないけど、今はあの頃は良かったなあ、なんて美化して思い出すけど、

実際のあの頃も、悩みばっかりだったんだろうな。そう思う。

 

人生はベルトコンベアだと思う。

終わりに向かって、みんな運ばれてる。両親が亡くなったのであれば、順番の次は俺だ。

でも正直、全く自覚はない。

今日も約10キロ、ジョギングしてきたし、2日に1回のペースで500メートル泳いでる。

だからどうした、という話だが、体力の衰えなど、今のところ、全く感じていない、

ということだ。

 

いよいよ話は脱線していく。

今日はそろそろやめようか。

戦メリを聞いて、センチメンタルになってしまったようだ。

中学生の頃は、曲を聴きながら、感情が揺さぶられてよく詩を書いていたっけ。

 

今日も寝苦しい夜になりそうです。

 

 

静岡に住み出して一ヶ月が過ぎた。

何とも不思議な感覚である。

 

まず、昨日は、司法書士試験の模擬試験があったので、静岡駅付近の専門学校で受験してきた。

昼休み、校外に出て、何となく街を歩く人たちを見ていた。

 

20年前、東京に住んでいた僕なら、静岡は遠い街、はっきり言えば、田舎、と思っただろう。

八王子に住んでいた大学時代、沼津出身のバイト先の先輩を、内心で「田舎者」扱いしていた自分を

覚えている。

しかし、だ。

昨日の僕は、明らかに静岡駅前の街を歩く若者たちを「都会の人」として尊敬の眼差しで見ていた。

明らかに。

 

これは、何なんだろう。

おそらく、彼らの内心は、自分たちは都会人だ、とは思っていないと思う。

何とも思っていないか、静岡を出て東京に行きたい、と思っているか、そのどちらかが大半だと思う

(これは主観です。まあ僕の主観だから、8割は外れている。)。

しかし、僕にとっては、彼らは都会人として見ていたのだ。

 

しつこいが、20年前は同じ人を見ても、決して彼らを都会人とはみなさなかっただろう。

もちろん、服装のセンスがそれなりだった、ということもある。

やはり今の若者、おしゃれで当然なのだ。

 

僕の中で、静岡は完全に「都会」になった。

 

でも、中途半端なのだ。

 

何と僕は、「あの」名古屋を超えて、さらに先の静岡にやってきた。

もう東京に随分近づいた。

しかし、静岡は東京ではない。だから、20年ぶりに帰ってきた、という気持ちにはならない。

でも、名古屋でも、関西でも、岡山でも、山陰でも、松山でも、九州でも、沖縄でもない(ちなみに僕は全部

行ってきた。)

 

東京でもないが、地元感もない。何か中途半端。

ホームでも、アウェイでもない、この感覚。

 

ホーム・アウェイでいうと、僕のJリーグの一番の応援チームは長崎。数年前までは明らかに札幌だったんだが。長崎に感情移入したことは事実らしい。

 

とにかく、中途半端ではあるが、今のところ、静岡は僕の中で、大変、居心地がいい。

東京にも近いし、名古屋にも近い。

車さえあれば、不便を感じることもない。色んな店もある。

 

長崎は、本当にいいとこではあったが、何か、西の果てという閉塞感があったのではないか、と思う。

生活するには何一つ不自由はなかったけど、三年目の最後の方は、何か、そろそろかな、と思っていた。

 

ただ、長崎では仕事が超忙しく、責任重大だったことはある。土日もずっと仕事のことばかり考えていた。

今も責任は重いが、人事の仕事ではないので、ストレスの感じ方は全然違う。

ありがたいことだ。

 

さて、何か中途半端に感じつつ、これから静岡で暮らしていきます。

よろしく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長崎から静岡に移り住んでまだ3週間。

今日は気まぐれで高速飛ばして東京に行ってみた。

長崎から東京へ行こうとすると、死ぬほど遠かったが、静岡から東京はマジで近かった。

アポなしで東京へ向かい、昼過ぎに高速から東京タワーを見た。

ひょっとすると、東京タワーを見るのも20年ぶりかも知れない。

相変わらず、日曜昼の東京は、車通りが少なかった。20年前と変わっていない。

 

高速を降りると、久々の環七を走った。

環七は、アポなしにも関わらず、快く俺を迎えてくれた。

そう。今日の俺はハードボイルド。中間管理職の俺ではない。

この時だけは、縦縞の黒スーツに、白いサテンのシャツの襟を出して、中野の飲み屋街を闊歩したあの頃の

俺に戻ったのだ。

車で流す曲は、まず壊れかけのRADIO。みらいからリクエストがあり、カラオケで歌い込んだ曲だ。

そして、B‘zからは当時流行っていたナンバーの「ZERO」。

さらに「True Love」。

今から思うと、桜坂や青いイナズマとか流し始めれば、もう想い出が止まらなかったかも知れない。

 

間違いなく東京は俺の場所であった。

もちろん、東京の方はそんなこと思っていないだろうが、俺は勝手にそう思った。

まさかこんなに長い旅になるとは思っても見なかったから、西への転勤を自ら希望した俺だったが、

もし、あのまま東京に住んでいたら、当たり前だけど、全く違った人生になっていただろう。

この20年はなんだったんだろう。

 

環七を走るのに、もちろん、何の違和感もなかった。

元々、馴染んでいた、生活圏だ。

俺はいつかまたまたここへ戻ってくるのだ。

 

東京から静岡への帰り道。

上りは大渋滞だった。

そして俺はスイスイの下リで帰宅。

これまた不思議な感覚だった。

 

名古屋、神戸、鹿児島、大分、沖縄、松山、愛知、福井、島根、岡山、長崎。

本当に長い長い旅だった。

 

ただいま、東京。

 

あ、まだ静岡だっけwww

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

静岡に着いて早2週間。

ようやく落ち着いた生活に戻りつつある。

長崎時代は仕事が忙しすぎて、司法書士試験の受験勉強がほとんど出来なかったし、かと言って、

体を鍛えていたかと言ったら、それもほとんど出来なかった。

コロナによる業務の拡大と、受け持った業務がそもそも忙しかったこと、ハラスメント処理などの

業務がたまたま繁忙期にあったこと、施設が色々なイベントを仕掛け、その対応に追われたこと等

に、多忙の原因はあるのだが、とにかく忙しく、精神的にボロボロになった。

岡山でパワハラに会い、リハビリしていた(笑)長崎でも結局パワハラにあった。

岡山の前の島根で仕えた上司にもパワハラに近いことをされたが、この三人は、いずれも札付きの

パワハラ上司だった。あえてそういう上司の下に送られていたのかな、と勘ぐりたくもなった。

まあそれはいい。

 

21年ぶりに関東に戻ってきた。上には余程嫌われたんだろうな、出世からは完全に見放された。

それもまあ良い。自分が好きで進んだ道だ。

 

部屋も片付いたので、来週からは勉強、スポーツクラブと課長時代並みの人間らしい生活に戻れ

るかもしれない。期待している。

 

本当は早速バリバリ勉強して、7月2日の試験に爪痕を残したいところだが、今から猛勉強して

合格の可能性が出るほど甘い試験ではないことは骨の髄まで染みている。

かといって、今年諦めるような輩は来年もさらに厳しいことも分かっている。

司法書士試験というのはそれほど難しい。

 

 

夜、部屋にいると、チャイムが鳴った。

深夜のチャイムというと、鹿児島まで追いかけて来た冬子を思い出すがそうではない。

誰だろうと思ってモニターを見る。

誰?

男だ。若い男。

サンシャイン池崎に似てる。

よく見たら俺だった。

ちょっと若い頃の俺が玄関の前に立ってる。

鳥肌が立った。

俺である俺は必死に何か大声で叫んだ。すると立っていた方の俺は何か言いたげに少し離れて行った。

ここで目が覚めた。自分の声で目覚めたのかも知れない。

こんな夢は初めてだ。

何でこんな夢を見たのかずっと考えてた。


そして自分なりにスッキリした。

この夢を見たのは昨晩。

考えて見れば、一昨日はおふくろの命日。

そういや、最近、線香もサボってたし、転勤するかも知れないという仏壇前報告もしてない。


ごめんなさい、お母さん。いつも感謝してる。

すぐに線香立てて報告した。


そういや、昨日、親父の遺影を箱に詰めたっけ。

親父とお袋が、

「報告くらいしろや」

と俺をたしなめたんだろう。


親孝行はあまり出来なかったけど、両親は心から尊敬してるし、感謝してる。


ありがとう、オヤジ、おふくろ。