昔はどの流儀も一般には行の行台子で終わりであった。
真台子は宗家の跡を継ぐものだけに許されたという。
それは近松門左衛門の槍の権左という物語にも取り上げられた。
真台子の伝授を受けるというのはその時代大変なことだったようである。
行の行台子はお濃茶とお薄の流れにつながる。
それは室町時代の中ごろに始まったようだ。
それまでは、竹の行台子はなかった。
真台子よりやや小振りで高さも低くやり易い。
今日の自分のお稽古は、本来はいけないのだが真台子の出し入れが大変なので行台子で大円真と行の行台子をお稽古してしまう。
秋にも同じようにお稽古したのに気がつかなかった。
行台子の準備をしていると、何をお稽古するんだったか解らなくなる。
なんと、始まりの用意はどちらもよく似ている。
あまり、詳しくは説明できないのだが、お道具はそっくりなのである。
お点前は全然違うのだが、まさに行の行台子のルーツなのだと思った。
大円真は真の行台子に比べると私は易しく思い、すこし油断をしていた。
これは最後に名物の扱いの総復習になっていると思った。
真台子の扱いのルーツは中国の禅寺である。
見たことはないが、畳のないお堂の真ん中に真台子は置かれお寺の大切なお道具が飾られていたようである。
5世紀ごろの茶経というお茶の本では詳しくお抹茶のことが書かれていたから、随分中国でも飲まれていたものだと思う。
だが抹茶は漢民族のもので後から興った元民族には受け入れられなかった。
元民族は寒い地方から出たので、お茶だけでは栄養が不十分と考え、お茶の煮出したものにチーズとか香料とか身体によいものを沢山入れて、それを煮込んだ末団子にして持ち歩いた。これが団茶と呼ばれている。
携帯用の栄養食のようなものである。
このお陰で元の海軍は強く、インドまで遠征できたといわれている。
逆にお抹茶は平安時代から鎌倉時代にまるで元の征服で滅んでしまうのを恐れるように、お道具もお抹茶の種も日本にもたらされたものなのである。
中国では美味しいお水がなかなか手に入らなかったことも影響している。
日本の特に近畿地方のお水がお抹茶とよく合い、日本に爆発的な茶道の文化が広がったのである。