何時頃から飲まれたのかもはっきりしてないのである。
ただ歴史上、中国の陸羽が書かれた3巻の茶経が有名である。
一番古い文献として残っている。
ただ内容は茶の植物学的効用が中心である。
その茶は初めは中国の雲南省、タイ、ビルマ、インドの南部であった。それが写真の図のように段々その後東に移動していく。
お家元兄弟は昔茶のルーツを求めて中国の雲南省奥地まで行かれた。そこで千年も経つ茶の木を発見されたそうだ。
まさに茶経時代の茶の木である。
陸羽は茶経ではお抹茶のことは触れてない。
その当時は煮るお茶だったらしい。
塩だけ少し入れて煮るそうである。
茶の伝播が段々東に向かい、漢民族に茶が広まると、漢民族は茶を煮ることはしないで、葉茶を石臼で引き粉にして、お湯を濯いで茶筅でかき回して飲む方法が進んだ。
栄養学的にはこの方が良い。
日本にはこの新しい茶の種を栄西さんが打雲大海の茶入れに
入れて中国から持ち帰り全国に広めた。
その上栄西さんは喫茶養生記という茶の本を著した。
この本は鎌倉の将軍実朝に献上された。
これを機会に武士の間にお茶を呑むことが広がった。
だが、最初は闘茶という遊びであった。
本茶ー栄西さんが中国から持ち帰った茶の流れ。
非茶ーそれ以外の国産のもの。
この飲み比べをまるで宴会のように飲めや歌えでやるのである。
幕府も堪らず禁止令を何度も出すが、佐々木道與を中心にした大名は止めようとしなかった。
室町時代になると庶民にも広まり、興福寺門徒の闘茶は賑やかなことで有名であった。
そのお陰で茶の生産と栽培は進んでいった。
品種改良も進んでお茶も美味しくなった。
安土桃山時代には恵まれた環境の下に利休さんが登場してくる。
新しい侘び茶という分り易い茶道を広めた。
お茶の健康上の効用のほか茶道という形で落ち着いて、清浄な雰囲気の中で飲めば更に茶の効果が上がるというのだ。
このときからさらに庶民に広まっていく。
だが、江戸時代人口の増加でお茶はいよいよ貴重品になった。
家康はお茶の売り買いを禁止した。
庶民は自家製のお茶を作ることになった。
今でも地方の農家や寺院の門前にお茶の木が見られる。
ある意味で本当の庶民がお茶を自由に飲めるようになったのは明治時代以後なのである。
今では宇治を中心に日本ではお茶が作られている。
右の写真はアッサムと中国の茶摘の模様である。
まさに、お茶は西洋と東洋の架け橋なのである。
茶畑のあるところ平和がある。
茶は日本に来て、日本の軟水と出会う。
軟水に合う抹茶はそれで大いに広まった。
西洋は硬水なので、緑茶は合わなかったが紅茶と言う製法でお茶が広がっていった。