前回はトラウマを持つ自分が「愚かな人」と思っていた人たちには自分にはない足場をすでに持っていたことに気づいたというところで終わりました。今回はそれの続き。

まず今になって思うのは、自分は彼らが羨ましすぎて逆に憎しみを抱いていた、ということです。だけど羨ましいことを認めたくないので「あんな愚かな人間にはなりたくない」と自己完結していたという事です。

そもそもその人たちが外に見せる振る舞いだけで本当にその人たちが愚かなのかは判断できません。もしかしたら遠山の金さんよろしく遊び人のふりをして何かのリサーチをしているかもしれません。もしかしたらトラウマによってあのような振る舞いをしていたかもしれません。だけど出発点から自分なのでみんな同じに見えていたわけです。

さて、今回は足場の話です。

トラウマを持つ人たちは「特に身近な人々」例えば家族兄弟、ご近所さん、クラスメート(あえて友人とは書きません)などから以下のことをされて来ています。

1.何かしようとしても辞めさせられる、不安にさせられる、その何か自体を下らないものと否定される、そんなことをする必要はないとねじ伏せられる、たしなめられる
2.成功しても認められない、そんなのは成功とは言わないと否定される、もっと高いレベルでこなしている人はいくらでもいると言われる
3.失敗したときは必要以上に責められる、攻撃される、2度と何かしようなんて思わないようにされる
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ここまで読んで気づくことはないでしょうか?1と2、実は自己啓発本と同じ事ですね。トラウマを持った人が自己啓発本を読んで感じる安心感て結局自分の幼少期の経験を追体験して安心してるだけですね。

そして3、経験があると思います。「だから言ったじゃない!」とと親に怒られる、最悪そこから精神的、肉体的なDVを受ける(他の家庭では同じ状況でも仕方ないと慰められる、よく頑張ったとむしろ褒められる、怒られつつも何のかんのサポートしてもらえるのに)。

「何やってんだよ、お前責任とれよな」とクラスで吊し上げられる(クラスの他の子、人気のある子が同じ状況になってもドンマイと言われてむしろみんなのフォローをもらえるのに)。

わかりますか?扉を開ける不安は実は3から来ています。

つまり自己啓発書を読む、と言うことは、過去の体験をわざわざお金と時間を使って追体験している、と言うことなのです。そして123123123...とループし続ける。要はひたすら4に入り込もうとしているということです。

当然自己啓発書が役に立つ人もいます。それは扉を開けるのが不安な人ではなく、扉を開けた向こう側に行った人です。

全く未知な領域に来た自分がどうぶれずにそこにいるか、どうやって盤石な地盤を扉を開けた先に築くか、ということを知りたいなら自己啓発書も役にたつでしょうけど、そういう人たちはおそらくトラウマが強い人が読むのとは別の啓発書を読んでいると思います。

で、トラウマですが、多くの人はそれがトラウマだとは思っておらず、「自分はこういう人だから」、「社会ってこういうものだから」、「むしろあいつらがおかしい」と思っています。トラウマがない人も同じことを思ってますが、言外にあるものが違います。それは「だからこのままでいい」なのか、「だから変わろう」なのかです。

今日はここまで