ほれ「辛」…目に見えたろ。
…あっ、間違った!
生物的な満足ではなく、もっと深い充足。
さらに、刹那的ものではなく、永遠をその観念に含むような幸せというものが、果たして可能か否かに対して考察すると
…それは、不可能であると言わざるを得ない。
何故なら、哲学的には、永遠をそれ自体として観念することが人間にはできず、有限な時間の積み重ねか、その否定としてしか認識することが出来ないないから。
それゆえ、永遠をその内に含むような幸せは、人間には得られない。
では、永遠をその内に含まなくても良いとするとどうか…
精神分析学によってその問いを引き継ぐと。
人は自らの欲望の対象を見ることは出来ず、常に社会的な欲求にすり替えられてしまうので、その場合も不可能である。
他の言い方をすれば、欲望の対象を自分の内に見つけた瞬間、自分自身は欲望の対象の外に立ってしまうからということだ。
あるいは、欲望の対象は、対象化されて自分の内から外に出てしまうからとも言える。
自分の外にあるものは、もう既に自分の欲望ではない。
よって、人は、充足を得ることが出来ない。
すなわち、幸福は、不可能である。
少なくとも、人間が努力によって幸せになることは出来ない。と、言える
…あっ、間違った!
生物的な満足ではなく、もっと深い充足。
さらに、刹那的ものではなく、永遠をその観念に含むような幸せというものが、果たして可能か否かに対して考察すると
…それは、不可能であると言わざるを得ない。
何故なら、哲学的には、永遠をそれ自体として観念することが人間にはできず、有限な時間の積み重ねか、その否定としてしか認識することが出来ないないから。
それゆえ、永遠をその内に含むような幸せは、人間には得られない。
では、永遠をその内に含まなくても良いとするとどうか…
精神分析学によってその問いを引き継ぐと。
人は自らの欲望の対象を見ることは出来ず、常に社会的な欲求にすり替えられてしまうので、その場合も不可能である。
他の言い方をすれば、欲望の対象を自分の内に見つけた瞬間、自分自身は欲望の対象の外に立ってしまうからということだ。
あるいは、欲望の対象は、対象化されて自分の内から外に出てしまうからとも言える。
自分の外にあるものは、もう既に自分の欲望ではない。
よって、人は、充足を得ることが出来ない。
すなわち、幸福は、不可能である。
少なくとも、人間が努力によって幸せになることは出来ない。と、言える
