恭愍王 開城王氏 高麗第31代王 蒙古名 伯顔帖木児
韓国ドラマ『鄭道伝』 恭愍王は太祖チンギスハ-ンの孫の世祖フビライハーンの子孫
恭愍王は
恭愍王は高麗第27代王忠粛王の次男で有り兄は高麗第28代王忠恵王で有り母は韓国ドラマ『鄭道伝』に出ている明徳太后洪氏である。
忠粛王は
忠粛王は高麗第26代王忠宣王の息子である
忠宣王は
高麗第25代王忠烈王と蒙古世祖の娘斎国大長公主との長男である
斎国大長公主は蒙古太祖チンギスハ-ンの孫の世祖フビライハーンの娘である
忠烈王
忠烈王の妻はフビライハーンの娘
1259年高麗が蒙古に降伏し30年間に及ぶ蒙古高麗襲来が終わると今度は蒙古は標的を日本とする其れから六次に渡る日本詔論の始まりと高麗の苦しみのはじまりでした。
太子王諶(忠烈王)は元に入朝(人質)23才
1260年蒙古世祖フビライハーン即位
1273年済州島の三別抄滅びる
フビライハーンは日本侵攻の基地と済州島に牧場を作る
1274年フビライハーンは日本侵攻の為高麗に戦艦の造船命令と兵、水夫を負担させる。
1274年5月 フビライハーン日本侵攻の準備完了の仕上げとして太子王諶を忠烈王とし即位させフビライハーンの娘斎国大長公主(蒙古名クツルガイミン)と大都(北京)の宮殿で結婚の式典を行うこの時忠烈王は38才皇女クツルガイミンは16才で有った 。此の婚姻により蒙古王室と高麗王室は親子関係になり忠烈王以下26代忠宣王、27代忠粛王、28代忠恵王、29代忠穆王、30代忠定王まで皆蒙古に忠誠を尽くす意味で忠の字を頭に王の名前を付けられる。又26代忠宣王から31代恭愍王までフビライハーンのDNAと忠誠の証として蒙古名も皆持たされる又蒙古(元)の王室と婚姻を繰り返した。
1274年10月20日 蒙古日本襲来 蒙古軍、高麗軍博多湾に襲来『文永の役』元寇
1281年 再び蒙古日本襲来『弘安の役』
1285年 忠烈王11年 星州李氏 李百年 李千年 李万年 李億年 李兆年の5兄弟が科挙文科に及第此処からが高麗末まで星州李氏の高麗での歴史の始まりです。
恭愍王
李仁復(イ・インボク)
は星州李氏文烈公派李兆年の孫李仁任の兄
韓国ドラマ『奇皇后』の奇皇后も出てます
ソウル宗廟の恭愍王神堂にある恭愍王と魯国公主の影帳
恭愍王の肖像画と祠堂
高麗王朝実録 恭愍王実録
恭愍王実録は1391年牧隠李穡と陶隠李崇仁(星州李氏)が編纂始めるが複雑な政治情勢の為朝鮮開国後1398年恭譲王実録と同じく完成高麗王朝実録は終結を見る。