メロメロのマロです。

どうしてこんなに可愛いのでしょう。


   旅から帰って、

 ちぎれるほど尻尾を振って飛びついてくる我が愛犬。


  さあ、どちらが先にこの世を去るかはわからないけど、いっぱい遊びまちょうね。


 できたら、マロのいない世界にはいたくない。



 よもや、自分がそんな風になるなんて

思いもしなかった。


コロナは、たくさんの恩恵をわたしにもたらしました。





  ログハウス「ベイト・パティクバ」
(ヘブライ語で 希望の家)

  33歳のときに建てました。
 お金もない
 目的もない  でも
  32年経って、やっぱり
 ふと思うは、神の声、ということです。

   納得したら動く、と普通の人は言う。

     普通は辛いよ。

自分勝手に作り上げた「私」という錯覚
  そこから出たとき、
「知らないことも知らない世界」の旅が始まる.

  このログがなければ、
 我が師、糸川英夫博士の遺言を聞くことが
 出来なかったかも。


   車椅子で来てくださった糸川先生。

 ノンフィクション作家の清武英利さんが、

「後列のひと」という本を書いてくれました。

後列の人とは、後ろの列の目立たぬところで人や組織を支える人々の物語です。

何度も取材を受け、
私のログハウスにも泊りがけで来られました。

糸川英夫のことが書きたい、と言われました。

ロケット博士として脚光を浴びた有名人としてではなく、
一人の人間としての姿を伝えたいのだ、
だから、
協力してくれないか、と言われました。

私も、人間として清武さんのことが好きになりましたから、できる限りの協力を約束したのでした。

ただし、アンさんのことをちゃんと書いてくれるなら、
という条件付きで・・・

 送られてきた文藝春秋には、
糸川先生がアンさんと並んで写り、同じページに
「二人の恋の墓守・赤塚高仁氏」と私の写真も載っています。


後列のひと 無名人の戦後史 https://amzn.asia/d/ilxuOp2


私と糸川先生との出会い、聖書の勉強会のこと、
先生からかかって来る電話のこと、
晩年の先生、そして先生とのお別れ・・・
読んでいるうちに走馬灯のように思い出が蘇って来て、
・・(ここから引用)


「いよいよ身体が動かなくなった頃、
アンさんは糸川の手を握りながら、赤塚に漏らした。

『あたしは今が一番幸せなの。
 ヒデちゃんが私だけのものになったのよ』

一方の赤塚は師を失う不安から、
糸川の車椅子を押しているときに尋ねた。

『先生、僕はこれからどうしていくのがいいでしょうか?』

細い声が帰ってきた。
『自分で考えなさい』
そうだ、先生はもういなくなるのだ。」
(引用ここまで)


 この場面を読むとその時の糸川先生の声がありありと聞こえてくる。

そして胸の奥の方がキュンとなる。

先生と出会って36年、
私が大きな決断をして、「ヤマト・ユダヤ友好協会」を立ち上げ、
講演や執筆で生きていこうと宣言したのも、まさに、自分で考えたから。


天の声、糸川先生からのエールと思え、
有難さで胸が熱くなります。

 仰げば尊し、わが師の恩です。

恩返しは何もできませんでしたが、
恩送りをして、周りの人に役立ってゆきます。

人に喜ばれる存在として生かしていただきます。

天国の糸川先生とアンさんに再会するその日まで、
手のひらをもらうためより、あげるために使ってゆきます。

  二度とない今日だから。