弥生三月

今日から新しい月が始まる。


   今月は北海道から九州まで講演会

 またアメリカ出張もあるのです。


  明日は、人間力大学に参加させていただき、

 今年初の五十鈴川での禊ぎです。


   まだ寒いやろなぁ、夜の五十鈴川。



それにしても人生の師のおかげで、
導いていただいたおかげさまで、
今日の私があります。


目をつぶって師を思う時、
面影とともに、
声が聞こえてきます。

天に住まいを移された、
師匠の教えを生きるとき、
師は、地上にも別荘を持って住まい、
今もなお伴ってくださるのを感じるのです。

 

伊勢の父、
中山靖雄先生

「喜べば、
喜びごとが喜んで、
喜び集めて
喜びに来る」

本当にそうです。


喜べることが来るのを待って、
喜ばせてもらおう、
誰かに機嫌をとってもらおう、
と、いう了見がよろしくありません。

そんなのまるで赤ちゃんです。

自立した大人とは、
自分で自分の機嫌をとれることですね。



糸川英夫博士の声も聞こえます。

「あなたは、誰か人の頭の上のハエを追っていればいいの。
みんな自分の頭の上のハエを気にしすぎね。
誰かの頭の上のハエを追っていてごらんなさい。
いつか、
あなたの頭の上のハエを追ってくれている人に気づくから」

自分のことはさておき、
人様のお世話をさせていただく。

人様が幸せになるお手伝いをする。

それが、
「誰かの頭の上のハエを追う」
という意味かも知れません。

そして、
それこそが、
人のなすべき仕事でしょうか。

自分が幸せになろうとして、
幸せになれないように、
人は創られているのでしょう。

誰かの幸せを願い、
誰かの幸せのお手伝いをするとき、
感じるあたたかさ。

それを「しあわせ」と呼ぶかも知れません。

今日も目の前の人が、
喜んでくださることに自分を捧げてゆきます。


悩み苦しみは、自分について考えていること。

自分勝手に作り上げた、
「私」という錯覚が苦しみを生みます。

「私」が消えた世界には不安が消えて

「平安」がある。


糸川先生との対話も、
中山先生との対話も、
先生が天に帰ってゆかれても終わりません。

真実の対話は、
死に別れてから始まるのだと感じています。


  肉体をもってこの世におられるとき、

  人間糸川英夫も人間中山靖雄も理不尽でした。

  師匠とは理不尽なものです。


 その理不尽さに、「ハイ」と従うとき

 己に死ななければなりません。


   その体験こそが人を変容させる。


私は、大きな財産をいただいたのだなぁとしみじみ思うのです。

だから、
受け取ったバトンを持って走り、
それを次に繋げるのが、
私の生きる意味。

 赤塚高仁独自の色彩も加えて(^^)

喜んで生かしていただきます。

  生きてて良かった。

 生かしていただき、ありがたきしあわせ。