30年ぶりのことだそうです。

ガリラヤ地方に17日続けて雨が降った。


 ガリラヤ湖の水位は30センチ上がっている。


 そして、緑が溢れている。



 世界からクリスチャンが押し寄せる

カペナウムにも、

山頂の垂訓教会にも、

人っこひとりいない。


   イスラエルは、驚くほど静かです。


 まるで、モーセの前で割れた紅海のように

 道が拓けてゆく。


   奇跡の旅となりました。



  山頂の垂訓


 イエスの波動を浴びて

みんなでガリラヤの海に叫びました。


 「アシュレイーー!!!


   さいわいだーーー!!!


 一人ひとりが、

 あるべき自分を喜んでいること。


 いつも喜んでいること。


   なりたい自分になろうよ。



 なりたい自分になれる自由があるのに、
なりなくない自分を生きて苦しむのは、
自分に対する最大の侮辱です。


 私は、工務店の2代目として生まれ、
親の跡を継ぐのが当たり前だと思い込んでいました。

「ねばならない」

これが、行動の一番大きな動機だったように思います。


義務的要素の世界では、

親の言うことを聞かねばならない、

いい学校に行かねばならない、

いい会社に入らねばならない、

いい人だと思われなければならない、

などという「ねばねば」納豆の糸引き社会ですね。


 こうすれば儲かる、
生活が安定する、
だから、本当は嫌だけど我慢せねば・・・


 こうすれば良く思われる、
嫌われたくない、
誤解されたくないから本音は控えねば・・・


 親だから、
男だから、
社長だから・・・


と、
他人の評価ばかり気にして、
人の目の中で生きているうちに、
「ねばねば」の奴隷になり果て、
いつの間にか、人生の賞味期限が切れ、
本来あるべき自分を生きる時間が無くなる。


そして、
ある日突然、
今回の人生の修了のベルが鳴るのです。


そのとき、

「こんなはずじゃなかった」

と、悔いても後の祭りです。


 行動は「恐れ」からか
 「愛」からか、
 このどちらかしかありません。


「イスラエルに行こうよ!」と、声かけて、
「行きたい」
と、応える人はとても多いです。


しかし、
「行く」人は、わずかです。


私は、「行く」と決めた気の合う仲間と旅をしながら、
人生で最も大切な宝物を見つけ、大事にしてきました。


それは、
「本物の情報」と「生涯の友」です。


人は、恐れの中で
何かを「すべき」という義務の世界に生まれたのではありません。


神は愛です。

無条件の愛です。

一方的に愛されています。

無制限に降り注ぐ愛です。

そして、
無差別です。


 私たちは、神の分け御霊をいただいて、
この世界にやってきました。


 やりたいことをやり、
 なりたい自分になり、
 自分のまわりの人を、
 幸せにするためにやってきました。


いますぐ、
自分のライフワークを喜んで生きる人生にシフトしましょう。

「すき」を大切に。


ねばねば納豆からすきすきすき焼きへ


 子どもの頃のような純粋な「すき」で「わくわく」を取り戻そう。


誤解されてもいい、
嫌われてもいい、
ほんの少しの勇気があれば、
目の前のドアは開けられます。


 そこには、ニコニコ顔で命がけの新しい友が待っていますよ。