ヨルダンにいます。
まず、ネボ山へ
40年荒野を彷徨って、
ようやく約束の地にたどり着いたモーセ。
しかし、
神はモーセに
「お前はそこに入ってはならない」
「指一本触れてはならない」
と、命じます。
私たち日本人の心情ならば、
せめて指一本でも、一歩でも、と思うのですが、
旧約聖書の世界の神は厳しいのです。
36年前、糸川英夫博士の家で
初めて聞かせていただきました、
聖書の講義。
初めて糸川先生にお会いした夜のことです。
昨日のことのように覚えています。
「偉大なリーダーは、たくさんいる。
しかし、
4,000年の時を超えて今に伝わる旧約聖書。
その中で、
最高のリーダーは、モーセです。
本屋に行くと、
リーダーシップ論は無数にありますよ。
でも、
10年残る本なんてありません。
だから、時を超え
リーダーシップ論を聖書に学ぶのです。」
聖書を宗教の経典としてでなく、
リーダーシップ論として読む。
目からウロコの話しぢゃありませんか。
ちょうど、その日が
「モーセに学ぶ、リーダーの退き際」
「リーダーの仕事は二つです。
ひとつは、後継者づくり。
そして、もう一つは、
美しい退き際」
あれから36年。
人生が変わる聖書漫談師の赤塚は、
同志を募ってイスラエルを旅し、
日本を変え、世界を変えます。
講演会でやまとこころを伝えたいと、
願っていますが、
伝えるということのなかには、
「伝えたこと」と、「伝わったこと」があります。
そのふたつは違います。
私がが伝えたことと、
向こうに伝わったこと‥‥です。
何が伝わっているか、
いちばん陥りがちなのは、
「伝えたつもり」になることです。
それは、
私が本気かどうかにつきます。
伝えたつもりになっているときは、
本気度が足らないのです。
聖書塾の回を重ねるごとに、
参加者が減ってゆくとき、
どうして伝わらないのだろう、と悩んだものです。
それは単純に、
私の伝えたことは、みんなに伝わっていなかった。
私はただ、「伝えたつもり」になっていたんです。
そこから何度も、10回でも、20回でも、伝え方を変えていきました。
それが私の36年の経験です。
誰もやったことのない、
聖書漫談というジャンルを開拓しようと思うのも、
大切なことを、
多くの人に、
遠くまで伝えるためです。
「伝えたつもり」がいちばん恐い。
それは、死ぬほど本気で考えているところがないと、伝わらないのです。
「伝えること」は、自分の人間性を磨いていかないとできないと思います。
人としての魅力がなければ、
誰も来てはくれないし、
講演会の主催なんてしてくれません。
本気になることだけが、
人を磨いていくのかもしれません。
そして、
それだけが、人を成長させるのでしょう。
「がんばってます」なんて言ったってだめですね。
がんばってる「つもり」になってたら、そのまま10年、20年経ってしまう。
そこには成長はないし、
魅力的な人生はありません。
でも、
「本気」であることと
「重い」ことはかならずしも同じではないと思っています。
ニコニコ顔で命がけ
これが私の願いです。
だから、一瞬の強さのために
いつもひらりと軽くありたいのです。
さあ、
どんな講演会よりも人を変容させるイスラエル。
ガイドとして本気スイッチが入る。
ヨルダンからイスラエルに入る明日、
私のWi-Fiが天に繋がります。
命をかけて伝えて参ります。
ヨルダン、ネボ山から見下ろす
モーセも見たであろう
イスラエル、エリコ方面
モーセの思いを偲びつつイスラエルに向かう。