イスラエル

テルアビブにある独立宣言の家

 30年前、我が師 糸川英夫博士と



 銅像になった糸川英夫
鹿児島は大隅半島
内之浦宇宙空間観測所

  糸川英夫は、凄かった。

「前例がないからやってみよう」が口グセ。


   人は彼を「天才」と呼んだけど
 そう呼ばれるのを嫌った人でもありました。

  「一人の天才の百歩より、
    百人の凡人の一歩で」も口グセ。

 最晩年の10年間、ずっと側にいさせてもらって、
私の人生は変わりました。

  先生とは、
すごい人で
立派な人で
人格者で、尊敬できる人。

   でも、師匠は理不尽。


 「そんな人だと思わなかった」

   という場面で、己を殺せるか。
 そう、
 プライドやエゴを捨てて
 それでもついてゆくことができるか。

   好き嫌い
   
   損得勘定

 そんなものを遥かに超える希望があるのか。


   私は、人生の終わりかと思うような
  どん底の時、糸川英夫博士に
 お出会いをいただきました。

   糸川先生にしがみついて
 がむしゃらな日々を送ってきました。

   先生との時間を作るために、
 青年会議所JCも退会して、東京に通い、
 イスラエルに行く費用を捻出するため
 車も売りました。


  自分にとってプラスになる情報を得る相手
 それを師匠だと思っている人たちが、
 時々勘違いして、
 私のようなものに「師匠」だ「父」だと
 近づいてくる。

   そして、
私が、師匠にしてもらったように接すると

 「なんで、私にだけ厳しいのですか」

 「そんな人だと思わなかった」と言って去る。


   上等です。



  夕べは、中山靖雄先生の弟子と
 伊勢で飲みました。

  お互いに師匠の悪口を言いながら、
 いっぱい飲みました。

  ゲラゲラ笑ったあとに、少し涙が出た。


 ペリリュー島で一緒に戦った戦友と
会ったような気持ちでした。

  師匠を持つことは、
 自分に死ぬことであり、
 また、
 自分を生きる道に出会うことでもある。


  糸川英夫に依存していたと気づくのは、
 師がこの世を去った後のこと。

 「依存」は恐怖を生むと知りました。

 糸川英夫亡き後

 糸川英夫の名前をいただき

    「赤塚仁英」と改名
  7年間その名でこの世を歩きました。


 「あんた、ええ加減に
  自分の使命である高仁に帰って来んか!」

 と、叱ってくれたのが
行動科学研究所の岩田静治先生でした。

   そして今、岩田静治先生を師匠として
 滋賀に通う私です。

  だから、静治先生には
「ハイ」か「イエス」か「喜んで」しかない。

 
「師匠」という言葉の意味は人それぞれ違うでしょう。

  私にとって、その言葉は大きく
 まるごと「承る」相手を意味します。


   完璧な人間などいません。

光が強いほど、闇も濃い。

   でも、
自分勝手に作り上げた「私」という錯覚から、
目覚めるには、私が死ぬしかないのです。

   私はしあわせです。

 良き師に巡り逢えて。

  今日から12月
師走です。

 師匠が走り回ってる。


 愛国者だった糸川英夫の遺志を継ぎ
日本とイスラエルの橋渡しをしてゆきます。

2024年は5回のイスラエルツアーを企画しています。

  本当のことを知って、目覚め
  自分の人生を生きるきっかけになるはず。


 糸川英夫の遺言です、

  「自分で考えなさい」