太平洋に向かってロケットを発射する。
糸川英夫の独創力で日本の宇宙開発が始まった。
「前例がないからやってみよう」
これが糸川英夫の真骨頂。
今日は糸川先生の誕生日。
明治の最後の年に生まれたから、
109年前のことになります。
糸川先生がこの世にいてくださらなかったら、
今の私の人生はありません。
糸川英夫博士は、いつもイスラエルの旅の始まりにこう話してくださいました。
「旅に目的は、持ちこまなくていいです。
それは、サングラスをして風景を見るようなもの。
色眼鏡をはずして、イスラエルを感じてください。
そして、この旅で、生涯通してつきあえる友が出来たら
旅は成功だったと言えるでしょう」
人類が滅亡するといった危機説が叫ばれる中、博士は人類は生き延びるときっぱり言い切っていました。
「すべて生物は、
逆境のときだけ成長する」
だから、本当の危機に直面する時、それを乗り越える過程で真の喜びを発見し、人類始まって以来の繁栄を築くことができると断言しました。
国土の60%が砂漠の国イスラエルは、ネゲブ砂漠に人が住めるようにするだけでも大変なのに、「全世界の砂漠に住む人の幸せ」のために研究と実践をしているのです。
糸川英夫が亡くなってすぐに、私は糸川博士の遺骨を抱いて仲間と共にベングリオン大学に行きました。
そして、これまでの友情に感謝するとともに、今後はこのようなツアーはできないだろうが、日本とイスラエルが手をつなぎ世界が平安へと導かれるという糸川英夫の預言の成就を願うと、ヘブライ語でスピーチしました。
すると、
大学総長が私に飛びつくように抱きしめ、泣き出しそうな顔で、
「イスラエルの研究施設を支えるのは、世界中のユダヤ人だ。
しかし、日本にはユダヤ人がいない。その日本で、イトカワが私たちを精神的に支えてくれた。
これがどんなに我々にとって救いであり、慰めであるかお前にはわかるか。どれほど誇らしいことかわかるか。
だから、お前はこれからもイスラエルに来なければならない」
と言ったのです。
これは、私が願うことではなくても、私に願われていることと感じ、その後も私はイスラエルツアーを続けてきました。
私がガイドするイスラエルは、他のどんなツアーとも違っています。
目には見えませんが、真の愛国者であった、糸川英夫が同行する旅なのです。
糸川英夫と共に旅した6度のイスラエル、糸川亡き後の26回のイスラエルの旅は、いつしか我が人生の長い一本道となってゆきました。
10日間、イスラエルという異次元空間に放り込まれた時、人は自分勝手に創り上げた「私」という錯覚から離れ、本来あるべき自分の姿を垣間見る瞬間が訪れます。
日常を離れた、非日常の時空で本当の自分に出会い、また、魂の友と出逢うのです。
旅のさまざまな場面で、私たちは大きな感動を覚えます。
それは、本来の自分が喜んでるからです。
旅から戻り、再び日常の海の中を泳ぎだすと、いつしか旅は思い出と言う名の生ごみのようなものに変質してしまうものです。
しかし、不思議なことにイスラエルの旅で受けた魂への衝撃はいまもなおここに燃えています。
糸川英夫は科学者でしたから、生涯「神」について人前で話すことはありませんでした。
目に見えないことを探求しつつ、科学者としての立ち位置を守り続けました。宗教家のように見られることを嫌った人です。
志を果たして、いつの日にか帰らん
山は青きふるさと
水は清きふるさと
旅が楽しいのは、帰るところがあるからです。
帰る国もない流浪の民、ユダヤから教えられました。
私たちの人生も旅だとすると、いつの日か帰るのでしょう。
魂のふるさとへ。
死んでも死なない永遠の命の旅をしている私たちの魂。
この世に生まれる前からあった聖なる約束。
ひとりにひとつずつ、大切な約束。
私たちが、願うことではなく、
私たちに、願われていることを果たして喜んで、元の場所に帰りましょう。
今日は信州の糸川英夫、終の住処にて講演します。
きっと、
私が話すことではなく、
糸川英夫のメッセージを伝えるひとときとなるのでしょう。
家で一泊、さあ、また旅が始まります。