ネットにつながれば、何でも知れるような錯覚を持っている人がいます。


いいえ、そんなことはありません。

情報は、どんな時代も移動距離に比例して得られるものなのです。

 

ネットにどれだけのものがあろうと、

あれは「情報と名付けられたノイズ」にすぎません。

私たちが、魂のアンテナを立ち上げた時、キャッチする波動。


そして心が動いて、ときに笑い、ときに涙し、次に体が動く。

 

いつの時代も、

本当のことを知るのは簡単ではありません。




チルチルミチル、

ふたりの子どもは、

青い鳥を探して旅に出ます。


でも、どうしても見つからない。


がっかりして家に帰ってくると、

なんと〈青い鳥〉は自分たちの部屋にいた。



人は、はるか遠くの方へ夢のような希望を求めがちだけれども、本当の幸せや希望というのは身近にあるものなのだ、ということを教えるお話だと思っていました。


 

『青い鳥』は古い童話だと思っていましたが、1949年に亡くなったベルギーの作家で、メーテルリンクは1911年にノーベル賞を受賞しています。

 

 チルチルミチルは、いろんな冒険をします。

 しかし、結局ふたりは〈青い鳥〉を見つけることができずに、悄然として家に帰ってきて、

やがて、その夢が覚めるのです。

 

朝になって、

「青い鳥なんてどこにもいなかったね」

と、ふたりがささやきながら、

ふっと部屋の隅を見ると、

鳥かごがあって、

そこに、ふたりが昔から飼っていた、どうでもいいキジ鳩か何か、

くすんだ色の鳥がいたのですが、

その鳥が、

突然ふたりの見ている前で色を変えてゆき、

見る見るうちに

輝く青い鳥に変身してゆくのです。


 

 ふたりはもうびっくりして、

その鳥を見つめます。

 

 

 奇跡が起こったのです。


 

私は、『青い鳥』という物語はそこで終わって、ハッピーエンドの話だとばかり思い込んでいました。


〈青い鳥〉は、私たちの暮らしの中にいるのだという教訓だと思い込んでいました。


 

遠くに幸せを探すものではない、

幸せは日々の営みの足元にあるのだという教えなのだと思っていました。


だから、足元を大事に暮らし、幸せになりましょう・・・と。



 

 ところが、大間違いでした。

物語は意外などんでん返しで終わるのです。

 

なんと〈青い鳥〉は鳥かごから逃げ出して、

空へ飛んで行き、

姿を消してしまいます。


 

 あとに残された、チルチルとミチル。



せっかく見つけた青い鳥を目の前で失ってしまいました。


絶望の叫び声をあげて泣く女の子。


チルチルは舞台の前に立って、

こうつぶやくのです。



「だれかあの青い鳥を見つけた人は、

ぼくたちに返してください。

ぼくたちは、幸福に生きていくためにはどうしてもあの青い鳥が必要なんだから」


そのセリフとともに幕が降りるという、じつに暗く、不幸で絶望的な話だったわけです。



 

極貧の生活をしている子供が夢見た〈青い鳥〉がついに手に入った。

しかし、手に入ったと思った瞬間、鳥は逃げ去り、あとには自分たちだけが取り残される。

 



 私は、長い間誤解をしていて、

長い旅をして、たくさんの体験をしても青い鳥はどこにもおらず、

落胆していると、帰って来た家の中に青い鳥はいたという、

遠くのどこかに幸せがあるのではなく、自分たちの生活、足元に本当の幸せというものはあるのだという教訓の物語だと思っていたのです。



 

 近すぎて見えないものなのだ、

本当の幸せとは・・・と、いうところから、

わたしは、

「魚には水が見えない」

という言葉をよく使うようになったのです。


 

子供たちは、青い鳥と一緒に幸せにくらしましたとさ、という話だと思っていたのですが、

最後に青い鳥は逃げて、絶望的な叫びのなかで終わる物語だったのですね。



 

人は〈青い鳥〉という、夢や目標を追い求めて、人生という旅をしてゆかなければならない。

しかし、それは遠いところにあるものではなく、実はとても身近なところにあったのだと気づくときがくる。

けれど、それに気づいたときはもう遅いのだという話のようです。

 


幸せという〈青い鳥〉は、手にしたと思った瞬間、バタバタと飛んで行ってしまう。


私たちは、永遠に〈青い鳥〉を手にすることはできないのではないか・・・



 

 62歳になって、少しは人生についてわかりかけてきた私が、いまようやくこの物語のもつ本当の意味に近づきつつありますが、メーテルリンクは、この本を未来ある少年少女のために書いたのだというのが不思議です。



 

残酷な話です、永遠に〈青い鳥〉は手に入らないのだなんて。



 

 誰かが考えた「幸せのようなもの」を求めることの愚かさを説いたのでしょうか。



「幸せ」というものは、安易に手に入るものではないのだ、外側にはないのだから、と教えたかったのでしょうか。



希望とか幸福とか、すでにどこかに存在しているように考えること自体が間違っている、

宝探しのようにどこかにころがっていたり、隠されているようなものではないのだと言いたかったのかもしれません。


そんなもの用意なんてされていないんだよ、

と。


 

最後のチルチルの台詞はこうです。


「ぼくたちには青い鳥が必要なんです。

しかし、ぼくたちの青い鳥は逃げて行ってしまいました。

だれか見つけた人は、返してください」



 

青い鳥を求めて旅をするのが人生。


どこまで行ってもみつからない。


でも気づいたら、本当はすぐそばいた青い鳥。


しかし、つかまえたと思った瞬間逃げて行く。


でも、青い鳥がなければ生きてゆけない。


どうしたらいいのか・・・



メーテルリンクは、子供たちに向けたこの物語を一切目線を下げず、甘く教えたりしません。

 

メーテルリンクからのメッセージは


「一人一人の〈青い鳥〉は自分で考え、

自分で創るのです」


ではないでしょうか。


 

 糸川英夫先生が、

私に最後に言ってくださった言葉



「自分で考えなさい」

 

 それと、シンクロして胸が熱くなるのです。



そこには、弟子や子供たちに対する無限の信頼と、

子供たちはきっとわかってくれるのだという、絶対の確信が感じられるからです。