2003年5月9日、鹿児島内之浦のロケット発射基地でM―Ⅴ5号機の打ち上げに立ち合わせてもらいました。
全長30メートル、世界最大級の固形燃料ロケット発射の瞬間、発射台からわずか300メートルの宇宙研記録班の場所で。
エンジンに点火、火が見えた
音と衝撃波が1秒あとにやってきて、
ドン!!
カラダが動かなくなりました。
目で追いかける、1秒間に1トンの燃料を燃やし天に駆け昇る巨大な銀の龍。
空が破けるような轟音と光に涙がこぼれました。上を向いて涙がこぼれたのは初めてでした。
探査機が向かった先は、地球から三億キロ離れた長さ540メートルの小惑星「イトカワ」。
我が国の宇宙開発の父、わが師糸川英夫博士の名前がつけられたその小さな星に着陸し、星のかけらを地球に持ち帰ってくるという使命をもって小惑星探査機は飛びました。
その探査機は「はやぶさ」と名付けられたのですが、公募では「アトム」という名前が一番多かったそうです。
でも原子爆弾を想像させるという理由でボツとなったそうです。
地表に降り立って土を取ってくる姿が、獲物を狙うハヤブサを思わせるから名付けられたということですが、糸川英夫博士の設計した日本を代表する名戦闘機「隼」とつながるのも天の計らいでしょうか。
世界中でどこも実用化できていなかったイオンエンジン、自分で着陸してサンプルを収集する自立型ロボット機能(地球からの電波が返るのに30分かかるので自分で考えて行動しなければならない)など、惑星探査に必要な世界初の試みに七つもチャレンジし、はやぶさはほぼ全て達成しました。
しかし、姿勢制御装置が故障して機体が回転してしまったり、エンジン故障、通信途絶、燃料漏れなど、もうだめかと思われるトラブルが次々はやぶさを襲いました。
はやぶさは、その都度プロジェクトチームの機転によって奇跡的に蘇ったのです。
2010年6月13日、満身創痍のはやぶさは予定から三年遅れて地球に帰還しました。
太陽の周りを五周もする七年間の飛行、60億キロの冒険でした。
大気圏突入前にイトカワの土の入ったカプセルを分離した後、はやぶさは秒速12キロの超高速で大気圏に突入し燃え尽きて役目を終えたのでした。
あれから10年
はやぶさ2は小惑星「リュウグウ」から、星のかけらを持って帰ってきました。
おかえり!はやぶさくん
私が生まれる4年前、
1955年、糸川英夫はわずか23センチのペンシルロケットを発射しました。
この「一本のえんぴつ」から始まった日本の宇宙開発は、ついに世界で初めての小惑星への往復飛行という新たな宇宙探査の領域を開拓したのです。
糸川先生は、独創力のカタマリのような人でした。
人は、それぞれ違った役割を持ってこの世に生まれてきたのだから、みんな違ってみんないいのだ。だから独創的に生きるのだ。
これからの時代は、一人の天才より、多くの人の組み合わせで天才以上の能力が生まれるのだと糸川英夫は言いました。
ひとりひとりが変容することでしか、世界が変わらないのなら、いまこそそのとき。
それぞれが、出会ったことのない新しい自分と出会うときです。
「前例がないからやってみよう」
星になった糸川先生の声が今も聞こえます。