隆家が捕縛され
伊周が逃げ
舞い戻ってきて
母と一緒にしょっぴかれ
 
一人ぼっちで
二条北宮に
残されてしまった
中宮定子さま
 
あの時代
こういう時
なぜか
頻繁に起こったのが
火事です
 
それは
放火なのか
放火だとしても
外からか内からか
 
とにかく
木と紙と布で
できている
当時のお屋敷は
一度火がつけば
それはそれは
よく燃えます
 
 
妃が
里下がりする
大事なお屋敷が
焼失するというのは
非常に
労しいことです
 
内裏での立場が
弱くなっておれば
 
当然
参内の機会も
減って
里居することが
多くなります
 
落ち着いて
生活する場所がない
というのは
どんなにか
苦しいことでしょう
 
焼け落ちる
二条北宮と
運命を共にし
 
もうこれで
おしまいにしたいと
思う
 
定子さまの
お気持ちは
痛いほどわかります
 
道隆の屋敷は
二条南邸も
あったそうですが
 
それは
長徳の変より前に
焼失したのだとか
 
 
 
内裏に限らず
高貴な人の屋敷も
狙われて
火をつけられるのは
しょっちゅうだった
らしいのですが
 
殊にも
政変で失脚した
貴族の屋敷は
狙われやすいのです
 
没落が
警備の手薄を
招くからなのか
 
失脚したら
それこそ
追い打ちをかける
かのように
屋敷が
炎上してしまうのは
 
よくある話
だったようです
 
明子女王の
お父さま
源 高明邸も
燃えました
 
 
 
 
この時代の
貴族の住まい
というのは
不思議なもので
 
定住は
しているけれど
屋敷の間を
行ったり来たり
するものなのです
 
出かける方角に
障りがあると
方違え(かたたがえ)
といって
あちらのお屋敷
こちらのお屋敷と
渡り歩きます
 
これが
いとも簡単に
頻繁に
できちゃうのは
 
身ひとつで
移動して
行った先で
用意してくれるもので
満足して暮らせる
柔軟性が
あったから
なのでしょうけれど
 
方違えして来た
貴人を
恭しくおもてなし
して
 
なんなら母屋は
明け渡して
自分たちは
対屋へ退いて
なんてことを
 
名誉あること
ありがたいこととして
受容れる
 
下の者の風土も
ありました
 
 
 
 
焼け出された
中宮定子も
受け入れ先を
見つけないとダメ
なのですが
 
羽振の良かった
昔ならともかく
今や誰も
引き受け手がなく
 
結局
中宮職の大進だった
平生昌の家へ
出産のために
行啓することになります
 
あの
門が小さくて
車のまま
入ることが
できなかった
お屋敷です
 

 

 

 

 

 

 

最終的に
この屋敷
(竹三条宮)で
最期を迎えてしまう
定子さまなのですが
それは三人目の
出産時です
 
 
 
中途での
二条邸再建は
叶いません
 
伊周が
不甲斐ないからです
 

 

 

今、これを読んだ

あなた

 

心臓

大丈夫ですか?

 

大変なことが

書いてありましたね

 

 

そうです

コイツは完全に

道長方なんです

 

その屋敷に

定子さまが

いらっしゃるって

ことは???

 

つまり

 

定子さまは

動静を

完全に掌握されて

いるってことですよ

 

 

兄の惟仲は

兼家の

左右の目と言われた

ひとりです

 

もうひとりは

藤原在国でしたね

 

 

ってことは

生昌は反骨精神から

定子さまを

預かったわけでは

ないのです

 

でもね

それは言い換えれば

護られている

とも

言えますけどね

 

逆に伊周方の

高階家にでも

囲われていたら

 

道長方に

もっと酷い目に

遭わされることも

考えられますから

 

生昌自身は

それでも

定子のために

良かれと思って

動いているように

見受けられます

 

彼の訛りは

備中訛り

 

私は以前

備中国府が

あった場所の

近くに

住んでいました

 

なので

彼の訛りは

たいへん

耳馴染みがいい

 

生昌は

地方出身で

文章生上がりの

苦労人です

 

朴訥とした中にも

人情味があって

こういう人の屋敷に

身を置かれた

定子さまは

まだしも

救いがあったかも

 

と、思ったり

 

 

とはいうものの

一条帝は

伊周のみならず

定子へさえも

ずいぶん

お怒りのようです

 

定子さまの

苦難はまだまだ

続くのでした