平安文学に親しむ
読書会で
 
「紫式部日記」
を読んでいます
 
 
先月は
先生が喉を痛めて
声が出なくなり
休講になりましたが
 
今月は無事
講義が
おできになりました
 
やれやれ
 
ただね
ちっとも
進まないんです
 
そりゃね
いっぱい説明しないと
時代の背景とか
知らない人が
ほとんどだから
 
でも、
読書会なのに
1行も
読めない人が
いてはねぇ
 
文句が出そうで、
心配です
 
 
 
 
 2ヶ月かけて作った
女房一覧が
完成しましたので
 
先生に
差しあげました
 
先生ったら
全部コピーしてきて
配ってました(8枚)
 
びっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくり
 
登場してくる女房と、
彰子の家族を
表にして
両親と兄弟姉妹、
配偶者と子供たちを
書き込んだのです
 
複数の本の注釈と
ネットを駆使して
埋めていきました
 
そしたらね
まあ女性は
ものの見事に
本名がわかりません
 
公職に就いた人
位階を授けられた人
天皇の配偶者とか
内親王や女王は
わかる人もありますが
 
それ以外の人は
ほぼほぼ
お名前がわかりません
 
それは、ほれ、
紫式部とて同じこと
 
苗字は藤原ですけどね
名前は分かりません
 
生没年も
わかる人は少ない
 
 
しかも、
文中に出てくる男たちも
大概
役職で書かれていて
本名がそのまま
ってことは
ないみたいなのです
 
 
 
 
この前
読んだところに
 
「播磨守」が
出てましてね
 
碁に負けて
負態(まけわざ)
していたのですが
 
テキストは
中野幸一氏訳で
 
播磨守は
平 生昌
 
って
書いてあるんですけども
 
 
読んでる時は
へ〜〜〜そうなのか
 
三条にある
あのお屋敷は
もう、四脚門に
建て替えたかしら???
 
なんて、
思いを馳せて
いたのですよ
 
(定子さまが
ご薨去あそばしたのは
生昌の家でしたからね)
 
それにしても、
生昌って
こんなにも
道長に近い人だったの?
 
って
思ったりもしたんです
 
 
 
けどね
後で調べたら

 

平生昌くんが
播磨介になったのは
寛弘6(1009)年3月で
 
しかも、
播磨「守」ではなくて
播磨「介」だし
 
播磨守だった人が
翌年
播磨介に落とされたり
するわけがないので
 
寛弘5(1008)年当時
播磨守であったはずがない
 
ガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーン
 
 
 
敦成親王が生まれたのは
寛弘5(1008)年9月11日
です
 
その前に出てくる
このエピソードは
それよりも
前のことでしょう?
 
なので
当時の播磨守は
寛弘2(1005)年に任官した
藤原行成のことではないかと
思われるのです
 
行成なら
道長の土御門邸で
碁を打っていたり
 
負けたからって
派手に
負態してたりしても
 
不思議じゃない
 
だいたい、
他の訳本はみんな
 
「誰かわからん」
 
「行成か有国か
平生昌」
 
って書いてあるのに、
 
なんでこの本だけが
平生昌
って
自信たっぷりに
断定してるんだか??
 
なんて、
思っちゃって
 
ガッカリ
しました
 
 
 
いやね
これも、みんな
紫式部日記には
 
ちゃんと、
「これは誰々さん」
 
って本名を
書いてないから
間違いが
起こるのですよ
 
いやまあ
当時はどんな場合も
本名をそのまま書いたり
しないので、
 
紫式部さんだけに
問題があるわけじゃ
ないんだけども
 
 
それにしても
ちょっと
調べりゃわかるのに
なんで断定するかね?
 
 
ああ、
この後もずっと
こんなことの連続だったら
嫌になっちゃうよ
 
訳本が信用できないって
どうなの、これ?
 
 
ああ、もう
 
テキストは
よかったなぁ
 
でもなぁ
文庫本しか
なかったからなぁ
 
 
 
ネットで
気軽に買えるので
新人さんのテキストの
注文は
私がネットでやってます
 
最初の13冊だけは
代表が書店で
注文してくれたのですが
 
来るのに
えらい時間がかかって
肝が冷えたのです
 
ネットはすごいです
2日後には
受け取れますから
 
気軽に買えるのだけは
便利なんだけどもね
 
 
 
 
 
さてさて
 
負態(まけわざ)って何?
って思いましたよね
 

まけ‐わざ【負態・負業】

〘名〙 歌合・花合・碁・蹴鞠相撲賭弓などの勝負事で、負けた組が罰として勝った方の人々にする供応や贈物。
コトバンクより
 
饗応するとなると
宴会を催したり
するんでしょうね
 
でね
この段の最後に
扇の話が出てくるんです
かなり唐突に
意味わかんない感じで
 
私は、
 
これは
負け方から贈られた
扇の話なんじゃ
ないかしら
 
って
先生に言ったんです
 
気分だけで
当てずっぽうで
 
 
で、帰ってから
確認したら
 
そういう説もあるって
書いてあって
本当にビックリしました
 
まあ私もその本を
一応読んだので
記憶の片隅に
残っていたのかも
しれないのですが
 
ちょっと
震えちゃった
 
先生は
私がいると
こういう
深い読みができるから
嬉しいって
おっしゃるのだけれど
 
ある意味
私は
超めんどくさい
生徒かもしれない
 
先生は
平生昌について
それほど強く
ひっかっかってなかった
らしいのですが
 
来月までに
もうちょっといろいろ
調べなきゃですね
 
 
 
 

https://core.ac.uk/download/pdf/146899971.pdf

これの5ページ4行目に

歌合の負態に

扇を渡したらしい記事が

載っていたので

 

負態に扇は

無理のない話だなぁと

思っています

 
 
 
 
ま、
こんなことをしているから
前に進まない
 
 
来年の「光る君へ」に
間に合うんかいな?
これ