大河ドラマの撮影で
まひろさんが
 
五節の舞姫になった
 
やらいう噂が
流れて参りましてね
 
お写真拝見しましたら
まあもうそれはそれは
お綺麗な御装束でしてね
 
ワクワクしました
のですが
 
 
 
あらまあ
しかし
 
これは
いつの時代の
オハナシなんで
ございましょうか?
 
まひろさんこと
紫式部さんが
14歳とか15歳の頃って
 
ちょうど花山天皇が
ご即位遊ばした頃で
 
お父上の為時さんは
おん歳35歳前後
まだ六位でしたけども
 
ちょうどその頃
式部丞から
蔵人になったそうで
 
六位でも蔵人は
殿上できたわけで
花山天皇に近侍していた
ということですね
 
花山天皇が
東宮の頃から
侍読だった為時さんには
 
この
花山さんの御代だけは
ちょいと
陽光が差しておりましてね
 
そりゃぁ
まひろさんが
五節の舞姫に
出たりしても
 
そんなに
不思議ではないのかも
しれませんねぇ
 
もちろん
出ていたという記録は
残ってないらしいのですが
 
まあその辺は
納得のいく設定に
してくださって
いるんでしょうね
 
それはそれは
楽しみにしております
 
 
 
 
ただね
問題は
のちのちの時代に
 
五節の舞姫について
紫式部さんのご感想が
紫式部日記に
あるんですよ
 
曰く
 
あんなにお顔を
みんなに晒して
耐えてるのは
ホントに大変そう
 
ってね
 
もしも自分に
五節の舞姫経験が
あるのなら
 
こういう言い方には
ならないんじゃ
ないかしらん?
 
って
思ったのですが
 
どうなんでしょうね
私の感覚が
おかしいのかな?
 
っていうか
うんと若いウチに
スポットライトを
浴びていたら、
普通はもうちょっと
耐性が
つくんじゃないかしら?
 
ってなことをね
思っちゃったんですよ
 
まあね
性格によって
受け止め方はいろいろだし
人それぞれでしょう
けどもね
 
 
 
 
さて
 
花山天皇の御代は
僅かに2年ほどのことで
 
その後の為時さんは
鳴かず飛ばずの時代が
長〜〜く続きます
 
可能性のある
大嘗祭は
寛和元年11月21日
986/01/04
なのかな?
 
紫式部さんの生年は
970〜978と言われていて
12歳〜16歳なら
お年頃もバッチリですね
 
まあもっとも
これが大嘗祭とは
限らないわけですが
大嘗祭だったか
そうでなかったかは
 
舞姫の数を見れば
一目瞭然ですね
 
大嘗祭なら五人だし
普通の新嘗祭なら
四人ですからね
 
そこのところ
皆さん
覚えておいてくださいね
 
 
最近読んだ
 
繁田信一著
「御曹司たちの王朝時代」
 
という本には
 
「五節の舞姫を出せって
言われたんだけど
出られそうな
かわい子ちゃんは
いったい
どこで調達すりゃあ
いいんだよ💢」
 
なんてお手紙を
書いてた人がいましてね
 
そりゃそうだ
姫君なんてモンは
屋敷の奥で
ひっそり暮らしているのに
 
どうやって
美醜を
見極めたらいいのやら
 
私も
教えて欲しいですわ
 
噂?
 
え〜〜
噂は信じちゃイケナイって
リンダ姐さん歌ってたよ?
 
あと
 
「装束とかも
どうすりゃ
いいんだよ‼️」
 
などボヤいてました
 
あれね、
3日間あるんだけど、
毎日着替えて舞うんで
3日ともおんなじ装束
ってわけにいかないんです
 
舞姫だけじゃなくて

お付きの人から

召し使う女童まで
えらい人数
揃えるみたいだから
 
それぞれ3組ずつ
装束が要るんですよ
 
まひろパパの
為時さん
大丈夫かな?
 
そんな
裕福だったとか
聞いたことないけど
 
 
 
いろいろ
気が揉める
清しょうこ納言なのでした
 
 
 
まあ、もっとも
 
公卿が出す五節の舞姫に
アンタんちの娘貸してよね
 
って話なら、
大丈夫
なのかもしれないけども
 
 
 
 
 
色々わかりにくいことが多くて
アレですが
 
一応リンクは貼っておきます
各自ご照覧あれ
 
豊明節会
とよあかりのせちえ
 
 
五節の舞
ごせちのまい
 
 
 
 
五節舞姫

http://lafete-biboroku.seesaa.net/article/474410747.html

こちら大変わかりやすい

 

この正暦4年に

中宮定子が出した

舞姫さんこそが

 

中宮彰子に仕えた

馬の中将という女房で

 

出産後の中宮彰子が

御所に還御する際、

紫式部さんと同車して

いや〜〜〜〜な

お顔したっていう

あの

馬の中将さんですからね

 

まあ、このお方

お父上は

藤原相尹(すけまさ)さん

相尹さんは師輔さんの孫で、

兼家さんの弟遠量さんの息子です

 

というわけでお父上は

道隆さん・道長さん等の

従兄弟にあたります

 

お母上は、

 

村上天皇皇子である

式部宮・為平親王の

妃の妹で、

 

源高明さんの四女

つまり、

母方は天皇家につながる

お血筋ということですわね

 

まあでも、お父上は

正四位下どまりの

受領層だった

のではありますが

 

プライドが

非常にお高かったん

でしょうかね




ラフェットさんの

詳しい説明は

続きます


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